mitsuhiro yamagiwa

2021-12-07

概念という形式 

テーマ:notebook

「存在」と「思考」とが一致することの意味

 じぶん自身とひとしいありかたは、いっぽう純粋に抽象的なものであって、純粋な抽象とはしかし思考にほかならない。

 質であることをつうじて、なんらかの現にあるものは他の現にあるものから区別されており、つまりひとつの定在となるのである。そのような定在はそれ自身だけで存在し、ことばをかえれば、このように単純にみずからとひとしいことによって存立している。ところでこの件をつうじて、現に存在するものは、本質的に思考されたものとなるのである。ーーここで概念的に把握されていることこそが、「存在とは思考である」とする消息である。そこで生じているのは一箇の洞察であって、その洞察は、概念も手にすることなく「思考と存在の同一性」についてふつうに語られる場合には、つねに見のがされていることがらなのだ。ーー現にあるものが存立しているとは、じぶん自身とひとしいこと、あるいは純粋な抽象であることである。

 つまりじぶん自身の内なるありかた〔へと立ちかえってゆくこと〕であり、みずからのうちで自己を取りもどすことであって、要するにじぶん自身となる生成なのだ。ーー存在するものの本性はこのようなものであり、存在するものは当の本性を知に対しても有している。

 知とは内容を異他的なものとして取りあつかう活動ではなく、内容からはなれ出て、みずからのうちに反省的に立ちかえるはたらきでもない。

 かえって知は、内容がみずからに固有の内なるありかたへと立ちかえってゆくことを見とどける。そのことによって知の活動は内容のうちへと立ちかえるものであるからだ。その理由は知の活動が、他であることにおいて純粋にみずから自身とひとしいという点にある。

 存在するものはそれ自身において概念であり、形式である

 存在するものの本性は、それが存在することにおいてみずからの概念であることにはならない。この本性のうちに、一般に論理的な必然性が存する。

 この必然性こそ内容の知であって、同様にまた内容も概念であり、実在となるからである。

詭弁的な思考のふたつの側面(ニ)

 詭弁を弄する思考そのものが「自己」であり、この自己のうちへと内容は立ちかえってゆく。そうであるとすれば、これに反して、その思考にぞくする工程的な認識のなかで「自己」とは表象された「主語」のことであり、その主語に対して内容が属性ならびに述語というかたちで関係してゆく。この基体が基底をかたちづくり、その基底に内容がむすびつけられて、かくて当の基底のうえをあれこれの運動が生起するのである。

 「自己」とはここで静止している主語、みずからは動かず、属性を担っている基体のことではない。自己とはむしろ概念であって、そのばあい概念はじぶんで運動し、みずからの規定をじぶんのうちに取りもどすものなのだ。この運動において、例の静止した基体そのものは没落して根底にいたり、さまざまな区別と内容のうちに入りこむ。だから主語といっても、むしろ規定されたありかたを、すなわち区別された内容をかたちづくり、その内容がしめす運動を形作っているのであって、運動に対立したままであるわけではない。

 〔かつて〕散乱していた内容は、その反対にこの件をつうじて「自己」のもとにつなぎとめられるから、内容は〔もはや〕普遍的なものとして、この基体をはなれ、自由にいくつも主題に帰属してゆくことがない。内容は、かくてまたじっさいにはすでに主語にぞくする述語ではなく実体であり、語りだされているものの本質となり、概念となるのだ。表象する思考というものは、その本性からして、属性あるいは述語をたどって進行してゆき、しかもこれらが述語あるいは属性以上のものではないかぎりでは、それらを越えでてすすんでゆくのも正当なところである。

 表象する思考がこうむるものはーーそう[考えて〕ものを見るならばーーいわばひとつの反撃であるということだ。表象する思考は主語から出発する。それは、あたかもこの基体が根底に存しつづけるものであるかのように見えるからである。そうでありながら、表象する思考が見出す消息は、なにしろ述語がかえって実体であるというのだから、主語が述語へと移行してしまい、したがって廃棄されてしまっているという事情である。くわえて、述語であるかにみえるものが、むしろ全体として独立の質量をもつものとなっているからには、思考は自由に徘徊することができず、かえってこの重みによって引きとめられているのである。ーーふつうならばまず、基体が対象的なかたちで固定された「自己(同一的なもの)」としと根底に置かれる。そこから出発して、多様な規定もしくは述語へといたる必然的な運動が進行してゆく。そこで、くだんの基体にかかわって知る〈私)自身が登場し、述語のさまざまなむすびあわせるものとなり、それらの述語をささえる主語となる。しかしながら、例の最初の主語はさまざまな 規定そのもののうちに入りこみ、そのたましいとなっているのであるから、この第二の基体、すなわち知る主体は最初の主語をーーその主語はすでに用済みとなっており、その基体を超えでて、主体はみずからのうちへと立ちかえろうとしているにしてもーー、なお述語のうちに見いだすことになる。だから知る主体は、述語を運動させるにさいして、はたらきかけるものであることができない。

 知る主体はむしろ内容が有する「自己」となおかかわるほかはなく、それだけで存在するのではなく、かえってこの「自己」とともに存在しなければならないのである。

『 精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。