mitsuhiro yamagiwa

2021-12-05

媒介と生成

テーマ:notebook

序文

 「概念Begriff」とは、ことがらの全体をその本質にあってとらえるものである。真理が知においてとらえられ、知の体系的全体である学のかたちで叙述されなければならないとすれば、真理を真理とする優位、あるいは場面は、この概念のうちにあることになる。通常たんに「とらえる、把握する」という意味でも用いられるbegreifenという動詞をヘーゲルは、このような連関で、つよく概念という含意を強調して使用することがあり、そのような場合には「概念的に把握する」と訳しておく。

 真なるものとは、自己展開してゆく全体である

 全体とはいっぽう、ひとえにみずから展開することをつうじて完成される実在のことにほかならない。

 はじまり、原理とは、絶対的なものが、まずは直接的なかたちで言明されたものであって、それはたんに普遍的なものにすぎない。

 なんといっても、媒介とはみずから運動しながらじぶん自身とひとしいありかたにほかならない。あるいは媒介とは、みずから自身へと立ちかえってゆくことであり、自立的に存在する〈私〉をかたちづくる契機なのである。媒介はつまり、純粋に否定的なありかたであって、この否定性を純粋に抽象へと引きおろして言いかえるなら、それは単純な生成なのだ。

 生成とはむしろ、単純なありかたへとこのように立ちかえることにほかならない。

 理性とは、みずからが自体的にはそれであるものへと、じぶんをかたちづくったものなのだ。そのようにかたちづくられることで、理性ははじめて現実的なものとなる。いっぽうこのように結果であるものは、それじしん単純で直接的なありかたをともなっている。

 自己意識をともなった自由はかえって、対立するものと和解しているのである。

カント的な悟性の立場と学の立場との差異

 存在するものはつまり、じぶん自身を一箇の契機へと変じ、みずからに単純なかたちを与えて、規定されたありかたとなる。

それはつまり、内容はみずからの規定されたありかたを、他のものから受けとって、貼付されたものとして示すのではなく、内容がそのありかたをじぶん自身に与えて、おのずとみずからを契機として序列づけ、全体のなかに占める位置を与える、という事情である。

全体があらわれるのは、そのなかで全体への反省が見失われていたかに思えた豊かさからなのである。

『 精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。