mitsuhiro yamagiwa

2021-12-13

自体的に背反するもの

テーマ:notebook

「健全な人間悟性」とその欺瞞

 「おなじことをみずからのうちに見いだし、感受しない者に対しては、自分としてはそれいじょう語るべきなにごともない」

 人類の本性とは、他のひとびとと一致することをどこまでも求めるものであって、この本性が現実に存在するのはただ、意識のあいだに共同性がもたらされる場合にかぎられるからである。反人間的なもの、動物的なことがらとは、感情のうちにとどまり、感情をつうじてだけたがいに伝達しあうことができる、という消息なのである。

序論

「認識=道具/媒体」説とその説明

 自然な考えかたによれば、哲学にあっては、ことがらそのものに、すなわち真に存在するものを現実に認識することへとすすむに先だって、必要となることがらがある。それはつまり、あらかじめ認識にかんして理解しておくことである。

 なんらかの道具をことがらに当てがうことは、ことがらを、それ自身にとって存在するとおりのものにしておくに止まるものではない。むしろそのようにすることで、ことがらにはかたちが与えられ、変化がくわえられることになる。

 私たちが手にするのはやはり、自体的にあるがままの真理ではない。かえって、この媒質をつうじて存在し、この媒質のうちに存在する真理なのである。私たちはこのどちらの場合についても或る手段を使用するわけであるが、この手段がただちに、それが目的とするところに背反するものを生みだすことになる。

 一見したところではたしかに、このような不都合は、道具のはたらくしかたを知ることで、それを取りのぞくことができるものであるようにみえる。というのも、そのような知識によって可能になることがあって、それは、私たちが道具をつうじて絶対的なものにかんして手にする表象のうちで、道具にぞくする部分を結果から引きさることだからである。

 しかしながら、このように改良してみても、私たちはじっさい結局もとからいた場所に連れもどされるだけだろう。

 あるいはまた、私たちが認識をひとつの媒質であると考えるとして、そのような認識を吟味してみれば、その媒質がうむ光線屈折の法則が教えられるものとしてみよう。

 というのも、光線の屈折などではなく、私たちが真理にふれることになる光線そのものが認識ということになっていたからである。これを引き算してしまえば、私たちにはたんなる純粋な方向だけが、もしくは空虚な場所のみがしるしづけられるにすぎないだろう。

「認識=道具/媒体」説の前提

 まずもって「このように前提することが真理であるか」というしだいなのである。

 要するに、認識とは道具であり、媒質であると考えることであって、また私たち自身をこの認識から区別することである。とりわけ問題であるのは、しかしながら、絶対的なものは一方の側に立ち、認識は他方の側に、それだけで、つまり絶対的なものから分離されて立っていながら、それでも実在的ななにごとかであるとする前提なのである。ことばをかえれば、そのような前提をおくことで、認識は絶対的なものの外部にありながら、ということはまた真理の外部に存在することになるはずてあるにもかかわらず、認識にはやはり真理が付着している、とされることになる。この仮定こそ、あやまりに対する恐怖と称されているものが、かえって真理をまえにして恐怖である消息を認識させるものなのだ。

 絶対的なもののみが真であり、真なるものだけが絶対的である

 このようにあれこれ語ることは、結局のところ、絶対的に真なるものとそれ以外の真なるもののあいだにあいまいな区別をもうけることに帰着するのであって、そこでは「絶対的なもの」だの「認識」だのと言ったところで、それらはただのことばであるにすぎない。そうしたことばが前提としている意義に到達することこそが、なにより問題となるのである。

「懐疑」の道と「絶望」の途

 意識にとってはかえって、概念の実現であるものが、自己自身を喪失することととらえられるのである。意識はこのみちゆきにおいて、じぶんが真理であるというありかたを失うからだ。

 現象する知にとってもっとも実在的なものは、ほんとうはかえってなお実現されていない概念にすぎないからである。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。