mitsuhiro yamagiwa

〔しかし以上に記述された諸空間も自然的空間の上に築かれている〕

 カンヴァスが絵の下からすけて見えるように、自然的世界はたえず人間的世界の下に垣間見られ、これに脆弱な趣きを与えている。

 なぜなら、客観化諸作用とは表現作用ではないからである。自然的な原初空間は幾何学的空間ではない。

 経験の統一は、可能的な客観化の諸地平によって、ほのめかされるにすぎない。それが私をそれぞれの特殊な環境から解き放つのも、それが、客観化の諸地平のすべてを包む自然もしくは即自の世界に、私を結びつけるからにほかならない。われわれは、いかにして実存が、一挙におのれの周囲に、私から客観性を隠蔽する諸世界を投射すると同時に、これらの諸世界を唯一の自然的世界という地の上に浮き出させることによって、客観性を意識の目的論に対する目標としてたてるか、ということの次第を、理解しなくてはならないであろう。

〔意識の両義性〕

 つまり、われわれ自身に関する認識においては、現われが現実である。例えば、もし私がみずから見たり、感じたりしていると思う場合には、外的対象がどうであろうと、私は疑いようもなく見たり感じたりしているのである。

 現実的であることと現われることは、一つである。現われること以外に現実は存在しない。

 私の錯覚が対象なき知覚であり、あるいは私の知覚が真なる幻覚であるなどという可能性も、排除される。知覚の真理性と錯覚の虚偽性とは、何らかの内在的な特徴によって、それら自身のうちで示されていなくてはならない。

 誤謬の存在をわれわれが知っているのは、真理を所有していればこそであり、真理の名においてわれわれは誤謬をただし、誤謬を誤謬として知るのである。逆に、真理の明白な承認とは、疑われざる観念がわれわれのうちに単に存在するということ、つまり眼の前に差し出されるものを直ちに信ずるということにより、遥かに以上のことなのである。それは問いや疑いを、つまり直接的なものとの断絶を予想するものであり、可能な誤謬をただすことなのである。

 ところでーーこれこそ真のコギトなのであるがーあるものについての意識があり、あるものが姿を見せ、現象があるのである。意識は自己措定でも自己についての無知でもない。意識は自己自身にかくされてはいない。

 意識においては、現われることは存在することではなくて、現象なのである。この新しいコギトは、顕わにされた真理と誤謬との手前にあるのだから、両者は可能ならしめるものである。私は、私が抑圧する感情を、あずかり知らぬわけではない。こういう意味では、無意識なるものは存在しない。しかし私が表象するより多くのものごとを、私は体験することができる。私の存在は、私自身についてはっきりと私に現われているものごとに尽きるものではない。ただ単に体験されるだけのものごとは、両面価値的である。

 錯覚と知覚との間の差別は内在的で、知覚の真理性は知覚自身からしか読みとることができない。

 錯覚は心像(イマージュ)と同様、観察されうるものではない、つまり私の身体はそれに対する手掛かりがなく、探索の運動によって私の眼前にそれを繰り広げることができないのである。しかし私はこうした区別をおろそかにし、錯覚に陥ることができる。私が真に私に見えるものだけにとどまるならば決して誤ることはないし、少なくとも感覚は疑いえないものだ、などということは真実ではない。いかなる感覚も意味をはらみ、漠然とした構図であれ明瞭な構図であれ、ともかく一つの構図のなかに嵌め込まれている。

 知覚するということは、一挙にあらゆる将来の経験を、厳密にいうと決してそれを保証していない現在に、賭けることである。それは、世界を信ずることである。

錯覚と同時にこの修正の可能性も私に与えられていたのである。

世界についての意識は、自己意識の上に基礎づけられているのではない。両者は厳密に同時的である。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。