mitsuhiro yamagiwa

2021-10-09

ここ – かしこ

テーマ:notebook

〔錯覚は構築ではない。知覚されたものの意味は動機づけられている〕

 いわゆる距離を見るということは、つねに若干の記号の解釈であるということにならないだろうか。

 ベルクソンが一片の砂糖がとけるのを待つように、私はしばしば、組織化がおのずと生ずるのを待つことを余儀なくされる。まして正常な知覚においては、知覚されたものの意味は、知覚されたもの自身のうちに定められているものとしてわたしに現われるのであって、私によって構成されたものとしてではない。

 つまり私の作用は根源的でも構成的でもなく、促され動機づけられているのである。

ーーしたがって一個の立方体を見るとは結局どういうことであるか。経験主義によれば、デッサンが実際に示している相貌に、一連の他の現われを、つまり最も近くから見た場合、横から見た場合、さまざまな視角から見た場合に、立方体が呈するであろう現われを、結びつけるということである。

 このように、相互に排斥しあうもろもろの経験に、しかも同時に立ち会うこと、つまり、もろもろの経験が相互に含みあい、可能的な過程の全体が唯一の知覚作用のうちにたたみこまれていること、こうした特徴こそ奥行の独自な性格をつくるのである。幅と高さが、諸事物ならびにその諸要素の並存の次元であるのに対して、奥行とはこれらが互いに包含しあう次元である。

〔奥行と「移行の総合」〕

 私がある距離を隔てて一つの対象を見るという場合、私は、すでにそれを掌握しているということ、あるいはなおもそれを掌握しているということ、つまり、それは空間のなかにあると同時に未来もしくは過去にあることを、意味している。

ーー私が知覚するランプはそれ自体としては私と同時に存在している。距離は同時的な対象の間にあり、そしてこの同時性は、知覚の意味そのもののなかに含まれている。

 しかし、実際に空間を定義する共存は、時間と無縁なものではない。それは二つの現象が同じ時間の波に属することである。知覚された対象と私の知覚との関係に関していえば、この関係が両者を結びつけるのは、ひたすら空間のなかであって時間の外だ、というわけではない。両者は共時的なものである。「共存するものの秩序」は、「継起するものの秩序」から分離されえない。あるいはむしろ、時間は単に継起の意識にとどまるものではない。知覚は、ここ- かしこという次元と過去-現在- 未来という次元の二つにそって広がる、広義の「現前(臨在)の領野」を、私に与える。

 そして記憶が、中間に介在する内容を媒介としないで過去を直接所有することとしてのみ、理解されうるように、距離の知覚も、遠方のものが出現するその場所においてこれを捉える遠方への存在としてのみ、理解されうる。記憶は、瞬間から瞬間への断えざる推移と、各瞬間がその地平の全体を伴って次に続く瞬間の厚みのなかにめりこんでゆくという過程とに基づいて、一歩一歩築かれる。

〔奥行は私の諸物に対する関係である。高さと幅についても同じである〕

 諸物の間の、いや諸平面の間の、関係ででもあるような奥行、つまり、客観化され、経験から分離され、幅に変えられてしまった奥行の下に、これにその意味を付与するところの、空虚な媒質の厚みであるような、原初的な奥行を再発見しなくてはならないのである。

 したがって、いまだ物と物との間に介在するのではなく、まして物と物との間の距離を見積るはずもない、ある奥行があることになる。それは、まだ殆ど物の資格を備えていない、いわば物の幽霊に対する、知覚の単なる通路にすぎないようなものなのである。正常な知覚においても、奥行は最初から物に充当されているのではない。上下左右は知覚内容とともに主体に与えられるのではなくて、たえず空間基準によって構成され、この基準に対して諸事物が位置づけられるのであるがーーそれと同様に、奥行と大きさが事物にやってくるのは、いっさいの対象-尺度に先だって遠近、大小を定義するところの、距離と大きさのある基準に対して、事物が位置づけられることによってなのである。ある対象について、巨大であるとか、微小であるとか、遠いとか近いとかとわれわれがいうとき、他の対象との比較、いやそれどころか、われわれ自身の身体の大きさや客観的な位置との比較さえ、暗黙裡にもおこなってはいないという場合がしばしばある。

 こうして奥行は、無宇宙的主観の思惟としてではなく、拘束された主体の可能性としてのみ了解されうるのである。

 垂直と水平も、結局、われわれの身体の世界に対する最良の取組みによって決定されるのである。対象間の関係としての幅と高さとは、派生的なものであって、根源的な意味においては、それらはまた「実存的」諸次元なのである。  

 垂直も水平も、近いも遠いも、唯一の状況内存在に対する抽象的な指示であり、主体と世界との同じ「対面」を予想するものなのである。  

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。