mitsuhiro yamagiwa

2021-10-18

追憶にふれる

テーマ:notebook

Ⅲ 物と自然的風景

A 知覚的恒常性

〔形態と大きさの恒常性〕

 われわれは知覚における恒常的な諸要素を研究することによって、実在性の現象に近づくはずである。一個の物はまず第一に、単なる見かけにすぎない遠近法的変容のもとで、その物独自の大きさと形態とをもっている。われわれは、これらの見かけを対象には帰属させない。それらは、われわれと対象との関係に属する偶然的な事情であって、物そのものに関するものではない。

 そして、何に基づいて、われわれは、ある形態と大きさとが、対象の形態であり大きさであると、判断するのか。
 それぞれの対象についてわれわれに与えられているものは、パースペクティヴに応じてたえず変る大きさであり形である。

 そしてこれらはまたこれらで、うつろいやすい見かけを固定し、相互に区別し、要するに一つの客観性を打ち建てることを可能ならしめる尺度を提供するのである。

 そもそもーー真実のものであろうと見かけにすぎなかろうとーー一定の形ないし大きさが私の前に現われ、私の経験の流れのなかで結晶し、結局私に与えられることはいかにして可能か、つまりいかにして客観的なものが存するのか、ということを理解することなのである。

 つまり、大きさと形は、結局個々の対象の属性として知覚されるのではなく、現象野の諸部分の間の諸関係を示す名称にすぎないということを認めることである。パースペクティヴの変化を通じて、真の大きさないし形が変らないということは、現象とその提示の条件との間の関係が変らないということにすぎない。

 それが変らずにいるのも、私がそれを確認した以前の経験の追憶を保存しているからではない。それは、視覚的な現われと見かけの距離との、相関的な変化の不変ないし法則なのである。

 立方体のいくつかの面は遠近法的に歪められている。

 立方体のそれぞれの要素は、その知覚されたすべての意味を展開するならば、それに対する観察者の現在の観点を知らせるであろう。単なる見かけの上での形や大きさは、現象と私の身体とがいっしょになって形づくる厳密なシステムのなかに、また位置づけられてはいない、形や大きさなのである。そこに位置づけられているやいなや、それらはおのれの真理を再発見し、知覚における変形はもはや受動的に受け取られるのではなくて理解されるようになる。

 われわれにとって、真実の、客観的もしくは実在的な、形や大きさがあるのはどうしてか、という問題は、いかにしてわれわれにとって、一定の形態が存在するか、という問題に帰着する。

 あらゆる現われ方において、対象は不変の特徴を保持し、それ自身は変らずにいる。そして、それが対象であるのも、それがとりうるあらゆる可能的な大きさと形とが、あらかじめ文脈へのその関係をいい表わす定式のなかに含まれているからである。われわれが一定の存在としての対象によって主張しているものは、実は変ることなき宇宙全体の一つの相なのである。そして、対象のあらゆる現われの等価性とその存在の同一性との基礎も、ここに存するのである。

 こうしてわれわれは一息に対象のなかに身を置き、心理学的諸問題を不問に付す。

 真の大きさと形とは、見方、距離、方向の変換を規定する恒常的な法則にすぎないといわれるとき、これらの要因が測定可能な変項ないし大きさとして扱われうるということ、したがってそれらはすでに規定されたものであるということが、暗黙裡に認められている。しかるに、実は問題はまさに、いかにしてそれらが規定されたものとなるかを知ることなのだ。知覚はおのずから対象に向っている、とカントがいうのは正しい。しかしカント説においては、逆に現われとしての現われが不可解なものとなるのである。

 主観は知覚するのではなく、むしろおのれの知覚と知覚の真理を思惟していることになる。

 私と対象との距離は、増大したり減少したりする量ではなくて、基準を中心として振動する緊張なのである。

 カントがいみじくも看取したように、いかにして私の経験のなかに一定の形と大きさとが現われるのかを知ることは、問題ではないのである。なぜなら、然らざれば、私の経験は何ものについての経験でもなくなるだろうし、またいっさいの内的経験は外的経験を背景としてのみ可能なのだから。

 それというのも、私の経験は、まさに身体の定義ともいうべき世界に対するある一定の構えの枠のなかで、いつでもおこなわれるからである。大きさと形とは、世界に対するこの全般的な取組みを様相化しているだけのことである。

 私が知っているのは、ただ単に、この地平が私を直接とりまく環境の地平であり、それが包含している諸事物を一歩一歩知覚的に所有する可能性が私に保証されているからなのである。換言すれば、もろもろの知覚経験が互いに連結しあい、動機づけあい、含みあい、世界の知覚は私の現前の領野の膨張にすぎず、その本質的構造を超越するものではないということ、そして身体はそこでもつねに作動者であって決して客体とはならないということ、こうしたことによるのである。世界とは、カントが超越論的な弁証法において示したように、私がそのなかに位置づけられている開かれた無限定の統一であるが、彼は分析論ではこれを忘却しているように見える。

〔音、温感、重さの恒常性、触角的経験の恒常性と運動〕

 複合的触角現象は現実に分解可能でないならば、同じ理由に基づいて、観念的にも分解できないであろう。

 さわり、さぐるのは、意識ではなく手であり、手はカントのいうように「人間の外的頭脳」である。触覚的経験よりも遠くまで客観化をおし進める視覚的経験においては、われわれは少なくともひと目みたところでは、世界を構成しているようにうぬぼれることができる。それというのも、視覚的経験は、距離を隔ててわれわれの前に繰り広げられた光景を提示するし、われわれが直接いたるところにおり、またいかなる一定の場所にもいないかのようか錯覚を、われわれに与えるからである。これに反して触覚的経験はわれわれの身体の表面に付着していて、われわれの前にそれを繰り広げることはできない。それは完全に客観となることはない。したがって触覚の主体としては、私はいたるところに偏在し、かつどこにもいないと、うぬぼれることはできない。

 触知するのは私ではなく私の身体である。触知するとき、私は多様なるものを思惟するのではない。私の手の運動可能性に属するある様式を、私の手が再発見するのであり、知覚野について語られる際には意味されているのも、このことなのである。

 われわれはある対象に、実際にはそれに触れたこともない身体部分でもって、追憶のなかでは触れることができるのである。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。