mitsuhiro yamagiwa

18 シェキナー

 最終形態における資本主義はーーこうドゥボールは、当時愚かにもなおざりにされていた商品の物神性にかんするマルクスの分析をさらに徹底させて論じているーーもももろのイメージの莫大な蓄積というかたちで立ち現われる。そしてそこでは、かつては直接に生きられていたもののいっさいが表象へと遠ざけられてしまう。しかしまた、スペクタクルは単純なイメージの領域、あるいはわたしたちたちが今日メディアと呼んでいるものと合致するわけではない。それは《イメージによって媒介された人格間の社会関係》であり、人間的社会自体の収奪と疎外にほかならない。

 現実の世界がイメージに変貌し、イメージが現実のものに転化するところでは、人間の実践的能力は自分自身から分離して自らに向き合う世界として立ち現われる。商品経済が社会生活全体の上に絶対的で無責任な主権を行使するまでになるのは、国家と経済の諸形態が相互に浸透しあっている、このメディアをつうじて分離され組織された世界の姿のうちにおいてである。

 スペクタクルというのは明らかに言語活動であり、人間のコミュニケーション可能性そのもの、あるいは言語的存在そのものだからである。

 コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人間たちをひとつに結びつけているものから切り離されるのだ。

 この現代政治のいっさいを荒廃させてしまうexperimantum linguae 〔言語活動の経験〕こそが現代政治の特徴をなしているのであって、それはこの惑星のいたるところで伝統と信念、イデオロギーと宗教、アイデンティティと共同性を解体し空っぽにしてしまっているのである。

19 天安門

 中国の指導者たちは、彼らなりの観点に立ったところから、もろもろの論点をもっぱら民主主義と共産主義の対立というますます説得性を失いつつある対立にもっていこうと腐心している西洋の傍観者たちよりもはるかに大きな明晰さをもって行動しているのだった。

 なぜなら、到来する政治の新しい事実とは、それがもはや国家の獲得や管理のための闘争ではなく、国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との埋めることのできない分離になるだろうとということだからである。

 じっさいにも、最終的には、国家はどんなアイデンティティ要求でも承認することができる。(わたしたちの時代における国家とテロリズムのあいだの関係の歴史が雄弁に物語っているように)国家自体の内部にあっての国家的アイデンティティですら承認することができる。しかし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件を(たんなる前提のかたちにおいてであれ)もつことなく共に所属する〔co-appartenere〕ことーーこれこそは国家がどんな場合にも許容することのできないものなのだ。というのも、国家にとっては、重要なのは断じて単独者そのものではなく、あくまでもその単独者がなんであれかまわないがひとつのアイデンティティのうちに包含されていることにあるにすぎない。

 あらゆる表象可能なアイデンティティを根本的に奪われているような存在は、国家にとっては絶対に取るに足らない存在であるだろう。このような存在こそは、わたしたちの文化において、剥き出しの生が神聖であるという偽善的なドグマや人権にかんする内容空疎な宣言が任務を引き受けてきたものにほかならない。

 所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、あらゆる所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示唆するところではどこでも天安門が存在することだろう。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。