mitsuhiro yamagiwa

2023-02-27

そんなふうにそのもの

テーマ:notebook

取り返しがつかないもの

 〈取り返しがつかないもの〉とは、もろもろの事物がそんなふうにあるがままに、あれやこれやの仕方で存在しており、修復のしようもなくそれらの存在様式に引き渡されてしまっていることを指す。事物の状態は、その状態がどのようなものであれ取り返しがつかない。

 きみのあるがままの状態、世界のあるがままの状態ーーこれが〈取り返しがつかないもの〉なのだ。

 正しいというのは、世界は啓示によって(言語活動によって)取り返しがつかないほど神聖でない領域に引き渡されてしまっているからである。スピノザによる取り返しがつかないものの二つの形態である安堵と絶望(『エチカ』第三部、感情の定義14 -15)は、この観点からは同一である。

 本質的であるのは、あらゆる疑いの原因が除去されてしまっているということ、もろもろの事物が確実にそして最終的にそんなふうに存在しており、そこから生じるのが喜びであるか悲しみであるかはどうでもよいということである。

 あらゆる純粋の喜びとあらゆる純粋の悲しみの根源をなしているのは、世界がそのようにあるがままに存在しているという事実である。悲しみや喜びが生じるのは、世界がそうとは見えるようなあり方をしておらず、あるいは世界がそのようであってほしいとわたしたちが望んでいたものが不純で暫定的なものだからである。

 <取り返しがつかないもの>は本質的でもなければ現実存在でもない。実体でもなければ質でもない。可能的なものでなければ必然的なものでもない。それは本来の意味では存在のあるなんらかの様相ではないのであって、すでにつねに様相のなかであたえられる存在であり、存在の様相そのものである。あるなんらかのそんなふうにではないのであって、そんなふうにそのものである

Ⅱ 

 そんなふうに。このっちっぽけな言葉の意味は把握するのが最もむずかしい。《だから事物はそんなふうに存在しているのだ》。

 そんなふうに存在している存在は、取り返しがつかないことにも、それのそんなふうにそのものである。それはただそれの存在の仕方そのものであるにすぎない。(そんなふうには、現実存在を規定する本質ではない。そうではなくて、現実存在はその本質をそれがそんなふうに存在していること自体のうちに、それが自己を規定したものであることのうちに見いだすのである)。

 それ以外ではないは、それぞれの述語を本来的な特性としては(本質の次元においては)否定するが、それらの述語をすべて非本来的な特性としては(現実存在の次元においては)取りあげなおすのである。

 (そのような存在は、純粋の、単独的な、しかしまた完全になんであれかまわない存在であるだろう)。

 アナフォラ〔代応〕としてのそんなふうにという語は先行する語へとわたしたちを送り返す。そして、この先行する語をつうじてのみ、それは(それ自体としては意味を欠いているのだが)それ本来の指示対象を同定する。

 だが、ここで私たちが思考しなければならないのは、もはやどんな意味やどんな指示対象にも送り返すことのないアナフォラ、もはや何も前提しておらず、すっかりまるごと表に露呈されている、絶対的なそんなふうになのだ。

 文法学者たちによると代名詞の意味を定義しているという二つの特徴、直示と関係、ディクシス〔指呼〕とアナフォラ〔代応〕は、ここでは最初から考えなおさなければならない。これらの特徴がこれまで理解されたきた仕方こそ、存在の理論、すなわち第一哲学を、そもそもの始まりから規定してきたのだった。

 代名詞は、ディクシスをつうじて、関係させられていない存在を前提に据え、アナフォラをつうじて、それを言述の《基体=主語》にする。こうして、アナフォラはディクシスを前提にしているのであり、ディクシスは(現に進行中の言述を想定しているかぎりで)アナフォラへと送り返すのである。両者は交互に相手を含意しているのが。(これが、ウーシア〔ousia 〕という語がもつ、言表しがたい個物とさまざまな述語の下にある実体という二重の意味の起源である)。

 こうして、代名詞の二重の意味のうちには、本質と現実存在、意義とデノテーション〔表示〕への存在の本源的な分裂が、両者の関係が明るみになることはけっしてないまま、表現されている。

 デノテーションでも意義でもなく、ディクシスでもアナフォラでもなく、両者が互いに相手を内に含んでいる状態にほかならないこの関係こそ、思考してみなければならないのだ。それは純粋の直示の対象である非言語的なものでなければ、その非言語的なものが命題のなかで言表されたかたちで言語活動のうちに存在しているというのでもなく、事物自体つまり非言語的なものが言語活動のうちに存在している状態のことである。すなわち、ある存在が前提に置かれているのではなくて、表に露呈されている状態にほかならないのである。

 現実存在と本質、デノテーション〔表示〕と意義あいだの表に露呈された関係は、同一性(同じ事物:idem)の関係ではなく、自体性(事物自体:ipsum)の関係である。哲学における多くの混乱は後者を前者と混同してしまったことから生じている。思考のことがらは同一性ではなくてことがら自体である。

 わたしのあるがままの存在、わたしが現実に存在している様式を、あれやこれやの質、あれやこれやの性格、有徳であるとか悪徳であるとか、裕福であるとか貧乏であるとかいったものとしてではなく、引き受けること。わたしのもろもろの質、わたしがそんなふうに存在していることは、それらの背後にとどまっていて、わたしが本当ならばそうであるだろうような、あるなんらかの実体(あるなんらかの基体)によって品質づけられた〔際立たせられた〕ものではない。わたしはけっしてあれとかこれとかではないのであって、つねにそのように存在するままに存在しているわたしなのだ。絶対的な意味で、eccum sic〔ほら、かように〕。所有ではなく、境界。前提されたものではなく、表に露呈された状態。

 きみが表に露呈されているということは、きみがたずさえているもろもろの質のひとつではないが、これらの質と異なったものでもない(それどころか、それはそれらの質以外の何ものでもないと言ってもよいだろう)。実在的な述語は言語活動の内部にあってもろもろの関係を表現するのにたいして、表に露呈されている状態というのは、言語活動そのものとの、それの生起との、純粋な関係である。

 露呈されている状態としての現実存在とは、そのようなものがそのように存在していることにほかならない。(この意味では、そのように性のカテゴリーは思考されないままあらゆる質のなかにとどまりつづけている基本的なカテゴリーである)。

 現実に存在するとは、品質づけられる〔際立たせられる〕こと、そのようなものとして存在するという責め苦に遭わされること(inqualieren〔ヤーコブ・ベーメ『アウローラあるいは曙光』〕を意味する。このため、質、それぞれの事物がそんなふうに存在しているということは、それが拷問を受けて発生〔湧出〕するということにほかならない。つまりそれは境界なのだ。

 そのようなものはそうのようにを想定しない。

 言語活動は何ものかを何ものかとして名指す。

 存在を存在として把捉しようとこころみる思考は、存在者にそれ以上の規定を付加することなく、しかしまた存在者を挙示するなかで述定行為の言表不可能な主語として前提することもなく、存在者に向かって後退していく。存在者をそれがそのように存在しているままに、そのとしてのただなかにおいて了解することによって、それの純粋の非潜在性、純粋の外在性をつかみ取るのである。それがもはや何ものかを《何ものか》として名指すことはしない。そうではなくて、としてそのものを言葉にもたらす。

 けっしてそれ自体ではなく、現実存在者であるにすぎない存在。それはなにか本質的なものが現実存在したのではなく、なんらの隠れ場所ももたず全面的に現実存在している者そのものである。それは現実存在している者を基礎づけたり運命づけたり無化したりはしない。それはあくまでもそれが表に露呈された状態であり、それの光背、それの境界である。現実存在している者はもはや存在に送り返すようなことはしない。それは存在のただなかに存在している。そして存在は全面的に現実存在している者のなかに放擲されてしまっている、避難場所をもたないまま、しかしまた安全なーーそれは取り返しのつかないものであることにおいて安全な状態で。

 それぞれの事物がそのように存在するままに存在していることがイデアなのだ。それはまるであらゆる存在者の形相、認識可能性、容貌が当の存在者から別の事物としてではなく、インテンティオー〔intentio : 志向〕として、天使として、形象として分離しているかのようである。このインテンティオーの存在様式はたんなる現実存在でもなければ超越存在でもない。

 それぞれの事物が自分自身と並んで自らを表示したもの(para-deigma)にほかならないのである。だが、このように自分自身と並んで自らを表示するということは、それが境界に位置しているということである。あるいはむしろ、境界の縁がほつれて見分けがつかなくなった状態と言ったほうが適当だろう、つまりは光背である。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。