mitsuhiro yamagiwa

2023-03-02

世界の外

テーマ:notebook

 そんなふうに存在しているということ、それが本来の存在様式であるということーーこのことはわたしたちにあるひとつの事物としてつかみ取ることはできない。それどころか、それはあらゆる事物性が消えてなくなってしまうということでしかない。

 人間は、もろもろの事物に出会うことによって、そしてもっぱらこの出会いのなかにおいてのみ、非事物的なものに開かれる存在である。

 非事物的なもの(霊的なもの)であるということは、もろもろの事物のなかで自分を見失ってしまうこと、もろもろの事物以外にはなにも思い描くことができないほどまでに自分を見失ってしまうことを意味している。

 もろもろの事物の生起は世界のなかでは生じない。

 そんなふうにあらんことを。あらゆる事物のうちに、善悪を超えたところで、ただ単純にそんなふうにをしかと肯定すること。だが、そんなふうには、ただ単純に、あれやこれやの仕方で、なんらかの特性を具えたかたちで、を意味するのではない。(そんなふうにあらんことを)とは、「そんなふうなものであらんことを」意味する。すなわち、〔然り〕である。

 しかし、言語活動の現実存在とは、世界にたいして言語活動の無の上に宙づりなったままとどまっているように言うときのsi〔然り=そんなふうに〕こそがそれなのだ。

(驚かされるのは、何ものかが存在することができたということではなくて、存在しないのではないことができたということである)。

 言語活動は存在しないことの可能性を開く。が同時に、ひとつのより強い可能性、すなわち、何ものかが存在するという、現実存在の可能性を開く。

 偶然的なものとはたんに必然的でないもの、存在しないことがありうるもののことではないのであって、そんなふうに存在しているもの、たんにそれの存在の仕方でしかないために、むしろでありうるもの、存在しないのではないことができるもののことである。

 何ものかをただ単純に、それがそんなふうに存在しているままに見ること。

 世界が取り返しのつきようもないことをきみが認識する瞬間、まさにその瞬間において世界は超越的である。

 世界はどのように存在しているのかーーこのことは世界の外にある。

二〇〇一年の傍注

 本書においては、決定的な問いは《何をなすべきか》ではなくて、《どのようになすべきか》である。そして在ることはそんなふうにほど重要ではない。仕事をしないでいることは怠惰を意味するものではなく、カタルゲーシス〔katargesis:不活性にすること〕を意味している。すなわち、「どのように」が全面的に「何を」に取って代わるような活動、形相をもたない生と生をもたない形相が生という形相において一致するような活動を意味している。このような意味での「仕事をしないでいること」を陳述することが本書の仕事であった。

訳者あとがき

 《複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件をもつことなく共に所属すること》

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。