mitsuhiro yamagiwa

2023-02-21

限定された対象

テーマ:notebook

16 外

 なんであれかまわないものは純粋の個物がとる形象である。なんであれかまわない個物は自己同一性をもたず、ある概念との関連で限定をほどこされることもないが、しかしまたたんに無限定なものでもない。むしろ、それはあるイデア、すなわち、その可能性の総体との関連をつうじてのみ、限定をほどこされる。この〔イデアとの〕関連をつうじて、個物はーーカントが言うようにーー可能なものすべてと隣接することとなるのであり、こうして、その〔あらゆる様態における限定〕をある特定の概念やなにがしかの現実的特性(赤いとか、イタリア人であるとか、共産主義者であるとかいった)に参与することからではなく、もっぱらこのように〔可能なものすべてと〕隣接しているということをつうじて受けとるのである。それはあるひとつの全体に所属するが、この所属はなんらかの実在的な条件によって表象されることはありえない。所属、そのようなものとして存在しているということは、ここではあるひとつの空虚で無限定な総体に関連しているということでしかないのだ。

 カント的な用語で言うなら、このことが意味しているのは、このように〔可能なものすべてと〕隣接しているということにおいて問題になっているのは外部というものを知らない限界(Schrankekake〔制限〕)ではなくて、あるひとつの敷居=閾(Genze〔境界〕、すなわち、空虚なものにとどまらざるをえない外部空間との接触点であるということである。

 なんであれかまわないものが個物に付加するのは、たんにひとつの空虚、たんにひとつの閾であるにすぎない。なんであれかまわないものというのは単独性に空虚な空間が加えられたもの、有限でありながら、ある概念によって限定されえないものである。しかし、単独性に空虚な空間が加えられたものというのは純粋の外在性、純粋の露呈状態以外のなにものでもない。なんであれかまわないものというのは、この意味においては、外部でのできごとである。だからこそ、原超越論的なquodlibet〔なんであれ〕という形容詞において思考されているのは、思考することの最もむずかしいものなのだ。それは、純粋の外在性という、絶対的に非事物的〔non-cosale〕な経験なのである。

 外はある特定の空間の向こう側にある別の空間ではない。そうではなくて、通路であり、その別の空間に出入りするための門扉である。一言でいうなら、その空間の顔、その空間のエイドス〔eidos〕なのだ。

 この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、外の内にあるということである。このようなエク- スタシス〔ek – stasis : 脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独者が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。

17 同名異義語

 フレーゲは若きラッセルの手紙のなかで何が問題視されていたのかをただちに理解した。問題視されていたのはほかでもない、あるひとつの概念からその外延へ移行する可能性、すなわち、クラスというかたちで推論を進める可能性そのものだったのだ。もっと後年になってラッセルは説明している。《いくつかの対象がすべてある特定の特性をもつとわたしたちが言うとき、わたしたちは、この特性があるひとつの限定された対象であり、それはそれが属するもろもろの対象から区別することができると想定している。さらには、問題の特性をもつもろもろの対象はひとつのクラスを形成しており、このクラスはなんらかの仕方でその諸要素のそれぞれとは区別されたひとつの新しい実体であると想定している》。まさにこの暗黙の自明の前提こそが《自分自身に属さないすべてのクラスのクラス》のパラドックスによって疑問に付されたのである〔ラッセル「論理のパラドックス」〕。

 あらゆる概念はその外延を構成するひとつのクラスを規定するというのは本当だろうか。ある概念についてのその外延から独立に語ることは可能だろうか。というのも、ラッセルのパラドクスが明るみに出したのはクラスを規定することのできない(あるいはアンチノミーを生み出すことなしにはクラスを規定することのできない)特性ないし概念の存在であったからである(これらの特性ないし概念をラッセルは「非述語的〔non-predicative〕」な特性ないし概念と呼んでいる)。ラッセルはこれらの特性(ならびにそこから出てくる疑似クラス)をその定義のなかに《すべての》、《あらゆる》、《なんであれ》という語によって構成される《見かけの変項〔apparent variables : 束縛された変項〕》が出現するような特性と結びつけている。これらの表現から生じるクラスは《正当性のない全体性》であって、それらはそれらが定義する全体性の一部をなすと主張する(それはなにか自らの外延の一部であることを要請している概念のようなものなのだ)〔ラッセル「タイプ理論にもとづく数学的論理〕)。それらのクラスにたいして、論理学者たちは(自分たちの勧告がまさしくそれらの変項を含んでいるという事実には無頓着なまま)つぎつぎに禁令を設けて、境界線をうち立てる。

 論理学者たちにとって不幸なことにも、非述語的な表現の数は人が考えているよりもはるかに多い。それどころか、あらゆる名辞は定義からしてその外延の全体およびなんらかのメンバーに言及しており、そのパラドクスが定式化しているところにしたがうなら、すべての(あるいはほとんどの)名辞は自分自身に所属すると同時に所属しないクラスとして提示されうるのである。

 「~と言われていること」、言語活動のうちにあることこそは、卓越した意味においての非述語的な特性であって、それはあるクラスのどのメンバーにも属する特性であると同時にその所属をアポリア的なものにしてもいるのである。

 すなわち、もしわたしたちが概念をそのものとしてつかみ取ろうとするなら、その概念は不可避的に対象に転化してしまい、わたしたちが支払う対価はもはやそれをそれが概念している事物から区別することはできなくなってしまうということなのである。

 志向性はなんらかのintentum〔志向されるもの・志向対象〕に転化することなくしては志向しえないということの志向性のアポリアは、中世の論理学では《認識存在》のパラドクスとして馴染みのものであった。

 イデアの理論のみが、思考を言語的存在のアポリアから抜け出させる(あるいはより正しくはアポリアをエウポリア〔打開の途〕に変容させる)ことができる。アリストテレスがプラトン的なイデアと数多的なファイノメノン〔感覚的事物〕との関係の特徴を示すのに用いている一節は、このことをこのうえなく明確に表現している。

 《数多くあるシュノーヌモン〔シノニム・同義語〕は、イデアに与ることによって、イデアにたいしてホムーヌミア〔同名異義〕の関係に立つ》『形而上学』。

 だが、多数の同義語のホモーヌミア〔同名異義関係〕を構成するイデア、あらゆるクラスのうちに内属しつづけつつ、そのメンバーをそれぞれの述語的所属から撤退させて、たんなる同名異義語にしてしまい、それぞれが純粋に言語活動のうちに住まっている状態を明るみに出してみせるイデアとは、一体全体、何ものなのか。それとの関連で見た場合には同義語が同名異義語であるようなものとは、対象でもなければ概念でもなく、それが名前をもつということそのもの、それは所属しているということそのもの、あるいはそれが言語活動のうちに存在しているということそのものである、このことは名指すことを表示することもできない。ただアナフォラ〔代応〕の運動をつうじて把握できるにすぎない。ここから、イデアは固有名をもたず、もっぱらauto〔自体〕というアナフォラをつうじて表現されるという原理、すなわち、ある事物のイデアは当の事物自体であるという(そのようなものとして主題化されることはまれにしかないにしても決定的な)原理が出てくる。この名前をもたない同名異義的なものこそがイデアにほかならない。

 なんであれかまわないものとは概念と(だけ)ではなくてイデアと(も)関係しているかぎりでの個物のことなのだ。この関係は新しいクラスを基礎づけるようなことはしない。そうではなくて、あらゆるクラスのうちにあって、個物をその同義関係から、当のクラスへの所属から、名前ないし所属の欠如した状態に向けて撤退させる。もろもろの概念からなる網はわたしたちを不断に道義的な関係のなかに投げいれるにたいして、イデアはいつもこれらの関係の絶対性の主張を粉砕するために介入してきては、その主張が首尾一貫性を欠いていることを明らかにしてみせる。ひいては、なんであれかまわないものはたんに(バディウが言うように)《言語の権力を逃れており、命名できず、識別不可能である》『哲学宣言』ものを意味しているのではない。

 より正確には、それはつぎのもの、すなわち、単純な同名異義状態、純粋に名指されていることのうちにありつつ、まさしくそうであるからこそ、そしてそうであるかぎりでのみ、名指しえないものを意味している。非言語的なものが言語活動のうちに存在していることを意味しているのである。

 ここで名前をもたないにとどまっているものは、名指されもの、名前そのもの(nomen innominabile〔名指すことのできない名前〕である。唯一、言語活動のうちにあることだけが言語の権威を免れているのだ。わたしたちになおも思考すべく残されたままになっているプラトンのトートロジーに倣って言うなら、ある事物のイデアは当の事物自体である。そして名前は、それがある事物を名指すかぎりで、名前によって名指されるかぎりにでの事物以外の何ものでもないのである。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。