mitsuhiro yamagiwa

2023-10-17

終わりのない適応

テーマ:notebook

第二章 役割

 私への執着が侵食している芸術とは何なのであろうか?

 方法の問題と発育不全な表現の間には関係がある。自己没入の内に浪費されている技巧性は演技の技巧性である。演技は成功するためには見知らぬ人たちからなる観衆を必要とするが、親しい人たちの間では演技は無意味なもの、さらには破壊的なものですらある。作法、しきたり、儀式の身振りといった形をとった演技は、公的な関係が形づくられる材料そのものであり、そこから公的な関係は感情的な意味を引き出している。社会的条件が公共の広場を侵食すればするほど、人々はますます演技の能力の行使を日常的に抑制されることになる。

 このような演技の形態は「役割」である。したがって、近代文化における公と私の推移を理解する一つの方法は、こうした公的な「役割」の歴史的変化を調べることであろう。

 つまり人々が自分自身の感情を表現することにかかわるとき、人々はあまり表現をしていない、ということにある。

 『誠実さと真生さ』のなかで、トリリングは自己表出が表現の行為とならない条件を示そうとした。

 誠実とは、トリリングによれば私において感じられたことの公の場での表出であり、真正とは、感じようとする自らの試みの別の人間への直接的な表出である。真正というあり方は公と私の区別を消してしまう。人間らしさは他人を傷つけるような感情を慎むことに本来あるのかもしれないということ、偽装や自己抑制は道徳を表現しているかもしれないということーー真正の庇護のもとではこうした考えは何を意味することもなくなってしまう。かわって、自己開示が信憑性と真実の普遍的な尺度になるが、他人に自分を明かすことで何が開示されるというのだろうか?

 ある人が感じられたものの客観的な内容よりも純粋に感じることに心を集中すればするほど、ますます主観性それ自体が目的となり、ますます表現は希薄になるのかもしれない。自己に没頭した状態のもとでは、自分の束の間の開示は不定形なものになる。

 『孤独な群衆』におけるリースマンの議論はそれに対立する極に向かってはいる。

 実のところ、空虚な公的領域と果たせない過重な仕事を負わせられた親密な領域の間の不均衡を無意識に強化していたのだった。というのも実際にあったのは彼の指摘とは逆の動き、というのは彼の指摘とは逆の動き、つまり他人指向型の社会から内部指向型の社会への動きだったからである。

 リースマンの功績はこの一般的で多岐にわたる問題に社会心理学のことばを生みだしたことだった。

 公衆は自分と同様の他人からなっているので、公的な事柄は官僚と国の職員の手に委ねることができ、彼らが共通の(つまり平等な)利益に気を配るのである。生活の魅力ある問題はそこでますます心理的な性質のものとなるーー市民たちは国家を信用して、親しい領分の外側で起こっていることへの関心を失ってしまうからである。その結果はどうであろうか?

 自我の満足はますます難しくなるだろう。なぜなら、トクヴィルの議論によれば、いかなる感情的な関係にしても意味あるものになれるのは、それが個人主義の「孤独な表現を閉ざした道」ではなく、むしろ社会的関係の綱の一部として認められるときに限られるからである。

 トリリングの著作にも、またリースマンの著作にも、平等が親密なヴィジョンの「原因となる」という考えはない。

役割

 役割には特別な種類の信念がふくまれている。このことはそのような信念を二つの同系の言葉、「イデオロギー」と「価値」から区別することでわかるかもしれない。

 人間の行動と人間の道徳には何か区別があり、科学者は前者のみを扱うものだと考える傾向があるということなのだろう。

 それはまさに公と私の比重の変化に関係しており、現代の指導的な役割分析家、アーヴィング・ゴフマンの著作にありありと表れている。

 ここにあるのは場面があっても筋のない社会の姿である。そしてこの社会学には筋がない、歴史がないがゆえに、劇場では意味をもつ登場人物なるものがそこにはいない、というのも彼らの行為は人々の生活に何の変化も起こさないからである。あるのはただ終わりのない適応なのだ。人々は行動するが、経験をもつことはないのである。

 ーーそれはすなわち感情を呼び起こすような社会的関係を想像しえないことであり、人々がただ撤退、「調停」、「宥和」によってのみ行動し、また自分の行動を管理する公的生活しか想像できないことである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳