mitsuhiro yamagiwa

2023-10-19

提示から表示

テーマ:notebook

公的な役割

 公的な生活と親密な生活との不均衡が大きくなるにつれて、人々はますます表現を希薄にしていった。心理的な真正さを強調することで、人々は俳優のもつ基本的な創造の力、自己の外側のイメージによって演じ、それに感情を没入する能力を開発できないために、日々の生活で人々は非芸術的になった。そこでわれわれは、演劇的であることと親密さとの間には特別の敵対的な関係があるとの仮説に到達する。演劇的であることは、強力な公的生活にたいしても同等に、特別な親しい関係をもっているのである。

 「メディアはメッセージである」とは、表現そのものがメッセージの流れに還元されるときにのみ意味をもつ金言なのだ。

都市における公的な役割

 都市とは何かについてのさまざまな考え方は、たぶん都市の数と同じくらい多いことだろう。

 もっとも単純なものは、都市とは見知らぬ人たちが出会いそうな居城地、というものだ。この定義が正しいものであるためには、その居城地には異質な大勢の住民がいなければならない。

 見知らぬ人たちが触れ合って生活するこの環境には、俳優が劇場で向き合う観客の問題に類似した観客の問題があるのである。

 劇場ではわれわれは俳優にたいして自分たちが見知らぬ人たちであるかのように振る舞うのであり、そこで俳優のほうは役を信じさせるようにしなければならない。

 公的なものが崩壊するにつれて、記号はいっそう主観的になるのである。

 公的な領域がますます曖昧になるにつれて、社会が人間の表現能力をどのように理解するかを示す条件は提示から表示へと移ったのだった。

証明か、もっともらしさか?

 経験的な社会研究において「証明」という語は不幸な意味をもつようになったーー一定の調査の過程をへて提出された説明以外はいかなる説明もふさわしくない、ということである。

 排除による真実の尺度では、新しい証拠の発見によって生じた矛盾は、もとの議論の無効を意味するはずのものなのだ。なぜなら、同じ主題についての二つの対立する解釈がどうして等しく正しいことがありえようか?証拠を検討しつくすことで排除することに基礎をおくこの経験主義は、私の考えでは知的誠実についてのいかなる本物の考えにも反するものだ。われわれが知的誠実に到達するのは、まさしく矛盾の真実性を認め、不変の陳述にいたろうとする望みをいっさい避けることによってである。証拠を検討しつくすという規範は実際問題として奇妙なものである。それは焦点をますます小さくすることにならざるをえないようであり、そこでわれわれがらある主題について「知る」ことが多ければ多いほと、ますます多くの細部を知ることになる。知性の麻痺がこの形式の証明の必然的な産物である。なぜならそれはすべての事実がーーいつかーー手に入るまでは、一切の判断を下さないように求めているのである。

 質的な研究の研究者はもっともらしさという重荷を自分に課しているのだ。

 経験的なもっともらしさとは、具体的に記述できる現象間の論理的な結びつきを示すことの問題なのだ。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳