mitsuhiro yamagiwa

2023-10-15

現在のなかの過去

テーマ:notebook

公的領域における変化

 人は公の場で自分を作るのであり、私の領域、なかんずく家庭内の経験において自分の自然の姿を実現するのである。

 公と私はいっしょになって、今日なら社会関係の「世界」と呼ばれるであろうようなものを創造したのだった。

 公的生活の変容は、ちょうどとりわけ強権な運動選手が、見たところ力の衰えもなく若い時期を越えて生き残り、それから突然、絶えず内側から肉体を蝕んでいた衰えを明らかにして、急に駄目になるのに似ている。

 公的秩序を支配し、形成しようという意志が徐々にむしばまれ、人々はそれから自分を保護することにますます力点においた。家族はこうした盾の一つになった。 家族関係を基準に用いて、人々は公的領域を啓蒙思潮におけるようにある限られた一組の社会関係として知覚するのではなく、むしろ公的生活を道徳的に劣ったものと見たのである。

 世俗的なものの見方は十八世紀から十九世紀にかけて徹底的に変わった。「ものごとと人々」は、十八世紀には〈自然〉の秩序の内に場所を割り当てられることが可能だったときに理解できた。この〈自然〉の秩序は物理的な、触れることのできるものではなく、また世間的なものごとによって要約されることは決してなかった。

 したがって〈自然〉の秩序とは、超越的なものとして世俗的なものをみる考え方だったのである。

 事実は体系よりも信じることができたーーというよりも、論理的に配列された事実が体系となった。現象が場所を得てはいたが〈自然〉が現象を超越していた十八世紀の〈自然〉の秩序はこうして覆された。

 ある人が作っている外見は、具体的な確かなものであるがゆえに、どれも何かしらの点で真実なのである。

 区別することは、何であれ間違いになりうるからだ。

 もし見知らぬ人たちに自分を曝すことをしないならば、人格的な力は発達しないかもしれないーーあまりにも無邪気だったりするかもしれないのである。

 前世紀にあっては、公的な経験は人格の形成につながるようになった。

 私生活中心化、商品の物神崇拝、あるいは世俗主義といった、見たところ抽象的な諸力は、われわれの生活にどのような点で関係しているのだろうか?

現在のなかの過去

 今日、人々は日常の言葉のなかで、何事かを「無意識に」するとか、本当の気持ちをほかの誰かに明らかにすることになる「無意識の」間違いをするとか述べる。

 それが明らかにしているのは、感情は意志とは無関係に露呈することの信念であり、その信念は公的生活と私的生活の重みのかけかたがバランスを失うようになるにつれて前世紀に形づくられたものである。

 より広いレベルでは、ヴィクトリア朝時代の最盛期に人々は衣服や話し方が個性を露見させると信じた。

 他人には意図しない話し方の癖や、身振りや、さらには身の振り方などで明らかになっつしまうと恐れたのである。

 結果は、私的な感情とその公的な表現の境界線が消えて、統制する意志の力がおよばないことにもなった。公と私の境界線はもはや決然とした人間の手による仕事ではなくなった。

 今日「無意識の」振舞いと間違った名前がついているものは、こうした公の場での意志とは無関係の性格の露見という考え方に原形があるのである。

 すでに言及したことだが、公の場で売られている物には心理的イメージが重ね合わされた。

 公的な人物が他人に自分の感じるものを提示する、こうした彼の感情の表示こそが信頼を呼び起こすのである。

 知識はもはや社会的な交際によって生みだされるものではなくなったのである。

 近代の公的生活のじつに多くにつきまとっている可視性と孤立のパラドックスは、前世紀に形を成した公の場における沈黙への権利にはじまった。他人にとっての可能性のさなかにおける孤立とは、この混沌としてはいるがいぜん人を引きつける領域にあえて踏み込んでいくときに、あくまで黙している権利を主張することの論理的帰結であった。

 親密さは、公的な問題を公的なものの存在を否認することで解決しようという試みなのだ。どのような否認とも同じく、これは過去のより破壊的な面をいっそう堅固に固めてしまっただけであった。十九世紀はまだ終わってはいない。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳