mitsuhiro yamagiwa

第十三章 イデオロギーとテロルーー新しい国家形式全体的支配

 人間的にはわれわれは広く、われわれが知らず、また手も貸さぬうちに人間がこの世界のどこかで犯した罪についても責任を引き受けなければならない。そうでなければ、人間という種の統一性というものは存在しまい。

 有害なものや生きる資格がないものを排除することが自然法則であるならば、新しい種類の有害なもの・生きる資格のないものが見られなくなったときが自然の終わりであろう。

 テロルは類のために個人を淘汰し、人類のために人間を犠牲にする。

 行動においては手段は目的を設定し、ねじまげる、つまり善い目的のための悪い行ないは悪を生み、悪い目的のための善い行ないは善を生む、と。

 イデオロギーは最初から運動の要素を自己のうちに持っている。なぜならイデオロギーはそもそも動くもののみに、つまり通常の意味での歴史というもののみにかかわっているからである。

 すべての自由はこの〈始めることができる〉にある。始まりについては強制的な論証もまったく力を持たない。なぜなら始まりはいかなる論理的連鎖から導き出されるものでもないからだ。それどころかすべての演繹的思考は、強制的な論理を展開するためにはまず始まりというものを前提しなければならない。

 われわれが同じように生まれてきたということは、政治的にはわれわれが ーー 一切の素質の差にもかかわらず ーー 自然から同じ力の強さを与えられているということを意味するにすぎない。

 なぜなら、生まれつきわれわれが平等であり、同じ力を与えられているという理由でのみ、われわれは一緒に共存しているのだから。

 一人でいるということはつねに同輩なしでいきていることを意味する。

 権力はつねに人間が共同で行為するところにのみ生ずる。一人の人間、もしくは行為の可能性を奪われている人々のグループはつねに無力であり、自分の力を現実に示す能力さえないのだ。なぜなら、それを示すだけにも最小限の他者との共同の行為があるからだ。恐怖は、人間の行為にもやはり一つの限界がある以上すべての人間がいつかは一度さらされる無力の状態の中での絶望なのである。

 だから恐怖は本来、行為の原理では決してなく、反対に、行為し得ないという絶望なのだ。政治の領域の中では、それは一種の反政治的原理である。

 本当に権力に関心を持つ人間は、距離を置いて支配することをあきらめるという、人間世界では免れることのできない代価を支払って、権力の成立する空間にーーすなわち、何か共同のことを行なう人間たちのあいだに生ずる共属空間に赴かなければならない。すべての人間が一緒に行為しはじめたとき、この空間の中でいわばおのずから一人一人の人間が権力にあずかっていくのである。

 全体主義的支配の中で政治的に体得される人間共存の基本的体験は、見捨てられていることの経験なのである。

 誰もがもうちゃんと確認してくれない現実を、見捨てられた人が疑うのは無理もない。なぜならこの世界がわれわれに安心を与えてくれるのはただ、この世界の存在を他の人々もいっしょにわれわれに保障してくれる場合だけだからである。

 現代人をあのように簡単に全体主義運動に奔らせ、全体主義支配にいわば馴らせてしまうものは、いたるところで増大している見捨てられている状態なのだ。その有り様を見ると、あたかも人間をたがいに結びつけているすべてのものが危険の中で砕け去り、あげくのはてにすべての人間がすべての人間から見捨てられ、もはや何ものも信が措けないかのようである。

 恐怖、そして恐怖の源である無力が反政治的な原理であり、政治的行為に対立する状況をあらわすように、見捨てられていることおよびそれから出てくる最悪を目指しての論理的・イデオロギー的演繹は、反社会的状況であり、一切の人間的関係を荒廃させる原理である。それでもやはり組織された見捨てられていることは、一個人の暴政的・恣意的な意志によって支配されるすべての人間の組織化されていない無力よりもはるかに脅威なのだ。

  その危険は、いたるところで終わりにさしかかっているように見えるわれわれのこの世界を、その終わりから新しい始まりがよみがえる暇もないうちに荒廃させようとしていることである。しかもこの始まりというものは、それ自体すべての終わりに含まれているのであり、いや、終わりというものが本来われわれに約束してくれているものなのだ。

 「始まりが存在せんがために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりはつねに、そしていたるところにあり、準備されている。その継続性は中断され得ない。なぜなら、それは一人一人の人間の誕生ということによって保障されているのだから。

『新版 全体の主義の起源 3』 ハンナ・アーレント/著、大久保和郎・大島かおり/訳