mitsuhiro yamagiwa

2023-05-03

固有の始点と終点

テーマ:notebook

エピローグ(英語版第十三章 イデオロギーとテロルーー新しい統治形式)

 実定法の権威の源泉としての〈自然〉もしくは〈神〉は永遠不易なものと考えられていた。実定法はその時その時の事情によって変化しつつあるもの、可変的なものだったが、しかしもっと急速に変わる人間の営為にくらべれば相対的な不変性を持っていた。

 だから実定法は本来、絶えず変わる人間の動きを安定化する要因として機能するように考えられていたのだ。

 テロルは運動法則の実現である。その第一の目的は、自然もしくは歴史の力がいかなる自発的な人間の行為にも妨げられずに自由に人類に浸透できるようにすることである。だからテロルは、自然もしくは歴史の力を解放するために人間を〈静止〉させようと努める。この運動の結果特定の人類の敵が選び出され、彼らに向かってテロルの暴政が揮われる。

 一つの運動法則の執行としてのテロルは、種のために個を滅ぼし、〈全体〉のために〈部分〉を犠牲にする。〈自然〉もしくは〈歴史〉の超個人的な力はその固有の始点と終点を持つ。だからこの力を妨げることができるのは新しい始まりと始まったものの終わりしかないが、それこそ実は各人の生涯にほかならない。

 法はすべての新しい始まりを囲いに入れて守り育てると同時に、その動きの自由を、まったく新しい予見不可能なものの可能性を守る。実定法の領域が人間の政治的存在にとって持つ意味は、記憶が人間の歴史的存在にとっと持つ意味と同じである。それは共通の世界が事前に存在していたこと、それぞれの世代の生存期間を超え、すべての新しい源泉(始まり)を吸収し、それによって維持される或る持続が現実に存在することを保証するのだ。

 だから、自然もしくは歴史の運動の従順な僕(しもべ)としとのテロルは、その運動の過程から、何か特定の意味の自由だけではなく、人間の誕生という事実そのものとともに与えられ、新しい始まりを生み出すという能力そのもののうちにある自由の源泉をも取り除かねばならない。人間の複数性を消滅させ、それ自身が歴史もしくは自然の力を解き放つだけではなく、そのままでは決して到達し得なかったような速度にまでその力を加速させる装置だったのである。

 全体主義の教育の目的は信条を人の心に植えつけることではなく、何らかの信条を抱懐する能力をなくさせることである。

 臣民の行為を導くために全体主義的支配が必要とすることは、彼らの一人一人が執行者の役も犠牲者の役も演じられるように準備することなのである。行為の原理の代用品となるこの二つの面での準備が、イデオロギーなのだ。

 イデオロギーーそれはつまり、単一の前提から演繹してありとあらゆる事柄を説明し尽くしてその信奉者を満足させることのできるさまざまなイズムのことであるがーーはごく最近になってあらわれたものであり、数十年にわたって政治生活の中では取るに足らない役割しか演じてこなかった。

 イデオロギーとはまさに文字どおりその名の示すものなのだ。つまり理念・観念の論理なのである。その取り扱う対象は歴史であるが、その歴史に〈観念〉という言葉がくっつけられるものらとする。そうなると出てくるものは、存在する何ものかについてのひと塊の論述ではなく、ある過程の展開であり、しかもそれは絶えざる変化にほかならない。

 イデオロギーは存在の奇跡には決して興味を寄せない。歴史を何らかの〈自然法則〉によって説明しようとするにせよ、イデオロギーは歴史的なものであって、文化の隆盛と滅亡、その興廃にもっぱら関心を持つ。

 〈人種〉という言葉は、科学的研究の一分野としての人種についての何らかの純粋な好奇心を意味するのではなく、歴史の運動がそれによって一つの首尾一貫した過程として説明される〈観念〉であるにすぎない。

 思想の運動ーー欠かすことのできない思考のコントロールではないーーとしての論理がある観念に適用されるゆ否や、その観念は前提に変えられる。

 矛盾を許さねという純粋に消極的な論理的強制が〈生産的〉なこととなり、こうして一つの思想体系というものが拵え上げられ、単なる推論によって結論を引き出しながら否応なしに人間の精神に迫ってくるようになった。

 イデオロギーはつねに、前提からの展開によってすべてを説明するためには一つの観念があれば充分であり、すべてはこの一貫した論理的演繹の過程の中に含まれている以上、経験などは何も教えないという仮定に立つ。

 人間はこの強制されるのとほとんど同じくらい乱暴に自分自身に強制を加えるのだ。

『新版 全体の主義の起源 3』ハンナ・アーレント/著、大久保和郎・大島かおり/訳