mitsuhiro yamagiwa

2022-12-09

空間・時間的境界

テーマ:notebook

一〇 プランクの発見と原子説の哲学的基本問題

 何よりもまず問題提起が彼の関心をひき、第二番目になってやっと回答が興味を起こすのである。問題提起は、それが人間思惟の発展に実り豊かになったとき、価値あるものと彼には思われる。回答は、たいていのばあい、ただただ時代に制約されているものでしかなくて、事実についてのわれわれの認識が拡大するために時代が経過するにつれて意識を喪失するにいたるはずなのである。

 プラトンにあっては、元素粒子は単なる所与ではないし、不変なるもの、不可分なるものではない。それはなお解明を必要とし、元素粒子たることの理由への問いはプラトンによって数学に帰着せられている。元素粒子はプラトンによってそれらに書き添えられた形をもっている、なぜならそれは数学的に最も美しく、かつ、最も単純な形態だからなのである。したがって現象の最終的な根源は質料ではなくて数学的法則であり、対称性であり、数学的形相なのである。

 プランクの発見はいかにも物質の原子構造を数学的に定式化された自然法則に、すなわち数学的形式に還元することの可能性だけをはっきりさせたにすぎなかったのだった。

 量子論においては、とりわけ物理的事象の客観的記述という問いが問題なのである。

 量子論は原子説と関連して成立したのだから、それはまた、それの認識論的構造にもかわらず、物質を体系の中心点に押しやる、あの哲学に緊密に関係している。

 われわれは「過去」という言葉で、少なくとも原則的に何かを見聞きできる総ての、あの出来事を、総括することができ、「未来」という言葉で、少なくとも原則的にはいずれ影響を及ぼし得る総てのあの他の出来事を総括することができる。われわれの直観的な表象においては両方の事象領域は「現在的瞬間」とわれわれの名づけている無限に短い時間要素で分離されている。しかし今われわれは、この現在領域が有限であるということ、事象の場所がわれわれの場所から遠く離れているほどこの領域はますます時間的に長く持続するということをわれわれは知っている。このことは作用が光速度でより速やかに信号し得ないせいである。したがってわれわれの経験できる出来事ともはや経験できないそれとの間に鋭い空間・時間的境界があるし、われわれがなお作用できる出来事とわれわれがもはや作用できない出来事との間に他の境界があるわけなのである。

 素粒子はすべて、いうなれば、同一の素材、すなわち、あなたがたがそう言いたいと希望されるならば、エネルギーからつくられるということをわれわれは認識することになる。火が原素であり、すべてのものはこれから構成されるというヘラクレイトスの哲学を思わするものがここにある。

 エネルギーは、素粒子の形を身につけることによって、素粒子の形で出現することによって物質になるのである。

訳者あとがき

原子の属性は観測にかかる程度においてのみ対象に所属することができ、しかも種々異なる属性の間には一つの属性を知ることは他の属性を同時に知ることを排除するという意味において相補性がなりたつが故に、異なる実験的状況のもとにおいて得られたところのものを単一な描線において理解することができなくなり、単一なる像を原子的対象に即自的に帰属せしめることが不可能となる。このところにおいて相補的と見なされるところの概念を、直接に因果的な連鎖をもつ単一な像にまで結合する古典物理学において、われわれの感覚にかかる巨視的な現象を派生的と見なし、これを説明する微視的な事象をば巨視的現象の奥にひそむ客観的な実在と考えるのとは事情が根本的に異ならざるを得ない。原子なる客観的実在は量子力学においては無媒介的に直観像を成立せしめるところのものではなくして、観測において観測器械に映じた相反的な直観像をば相補性関係において量子力学の定式化のうちに論理的に整合的に統一させる如きものでなくてはならない。かくして個別的な観測の結果だけは客観化されるが、それらの結果は断じて完全なる直観像を与えるものでないとして、ハイゼンベルクの謂うところの従来の実在秩序の逆転なる提言が意味をもつのである。

 つまり精密自然科学は生気ある自然の直接的な把握の断念に基づいて形成されたわけである。これに反して生命とか感情とか意識とかは生気あるものとしてむしろ受容的にしかとらえられない。両者の領域はまさにきびしく対立する。しかしながらそうであるだけに却って相補性を示唆するところをもっていると考えることが可能であろう。かくして精密自然科学の基礎の変革によって推進された新しい思惟形式は古典物理学的世界像の硬直したわくをうち破って広い世界像の統一を願望することの自由を創造したことをハイゼンベルクはといている。

 意識とか感情とかを問題にするばあいには、それらが歴史的制約のもとにあるものである限り、政治経済的な社会関係を抽象してはそれらの論究に不可欠な具体性を喪失することになるであろうし、また科学と現代の世界との関係という問題においては社会科学の方に重大性のより大なるものがあり、社会科学と自然科学との連関性の論究を欲求することは極めて自然的であるが、本書においてそうしたことを求めることは残念ながら不可能である。

(昭和ニ八年七月)

『自然科学的世界像』W.ハイゼンベルク/著、田村 松平/訳より抜粋し流用。