mitsuhiro yamagiwa

2022-12-07

中心の欠如

テーマ:notebook

六 自然科学的世界像の統一

 明らかに物理学と化学とによって完全に説明できる有機体内の個別事象と、全体としての生命過程の特徴との間には、しばしば論究された矛盾が依然としてーー少なくとも外見上ーー存続するわけである。まさに、「全体はその部分の総和以上だ」というきわめて一般的な定式化はこうした外見上の矛盾を、たしかに映しだしてはいる、けれどもこの矛盾を解決はしない。今日の自然科学は、精巧になった観測技術とそれに結びついて実証的な知識が豊富になったことによって、ついに、余儀なくそれの認識的基礎を修正せざるを得なくなった、そうして、すべての認識のあのように固定した基礎がありえない、ということを承認しなくてはならなかった。空間と時間において客観的に経過する世界というあの表象もまた、でき得るかぎり客観化しようと望んで企てられるところの、実在の理想化であるにすぎない。

 われわれが以前の自然科学よりもより多く知っているのは、認識可能なものすべての領域に通ずる通路の確実な出発点は何もないということ、むしろかえって、すべての認識は、いわば、底なき深淵にただよわなくてはならない、ということであり、そうして、われわれは、いつも、その中間の何処かで、適用することによってはじめてより一層明確な意味を次第にもち得るようになる概念を用いて実在を語ることに、とりかからなくてはならないということ、そうして、論理的、かつ数学的な正確さについての要請を、ことごとく満足する最も明確な概念体系でさえ、限られた実在領域内でわれわれに行くべき路がわかるようにしようとする暗中模索的な試みであるにすぎない、ということである。

 われわれがわれわれの思惟をはたらかせて一つの大きな連関の中へ、ますますずっとはいり込んでいくことが結局はできるのではないか、という予感こそは、われわれにとっても依然として研究の推進力なのである。

七 原子物理学の現今の根本的諸問題

 原子の配置と対相互運動とがものの性質を決定し、かくして世界の多形態を生み出す。

 「ものは、ただ外見の上でだけ色をもち、ただ外見の上でだけ甘みとか苦味とかがあるにすぎなくて、真実には原子と空虚な空間とだけしか存在しない。」デモクリトス

 世界の多様性は数学的形象の多種多様さによって起こる。生命の全多様性は、本性的な存在者、原子によって形づくられる幾何学的形態の多様性に反映されるわけである。

 たくさんの現象は、なんとかして、たくさんの数学的形態に関係づけられなくてはならぬのである。その後の発展はこうした思想に、よってもってすべての事象が行われるところの不変的な自然法則という重要な観念をさらにつけ加えた。かくしてその数学的形態は未来にさえもおよんで、何が起こるであろうかを許すわけである。

八 諸国民間の和協のための手段としての科学

 科学は諸国民間の協和に、現実に、寄与することができるのであろうか。科学は、大きな力を、それがかつて人間の手のなかにあったりよりもより一層偉大な力を解放することができる、だがしかし、その力は、それを中心からして統制するのでなければ、混沌に導くものなのである。

 空間と時間すら経験の対象になり、それらの象徴的な内容をなくしてしまった。科学においては、われわれの世界理解はなにがしかの確実な認識でもって始まるということができず、かかる認識の磐石の上に建設され得るものではなくて、かえって、あらゆる認識は、いわば、底なき深淵の上をただようものだ、ということが、ますます、意識されるようになった。

 あらゆる虚無主義的態度の特徴は、統制する中心、すなわち、そこからして個人の行動が、どんな場合にも、その方針とその力とを受けとるところの中心の欠如ということである。

 観測される系が観測によって受ける撹乱は、原子的事象の直観的記述が可能になる限界を確定するにあたって、さらに重要な役目をはたしている。

 しかしながら量子力学の法則の統計的な性格は、エネルギー関係を精確に検討することが当該事象を空間と時間について同時に追跡することを排除するというところに現われる。

 不確定性関係は、量子力学において一つの変数の正確な知識は他の変数の正確な知識を排除し得るのだから、たしかに相補性概念の実例を与えている。

 分子の化学的性質の検討はその分子内における個々の電子の運動の追跡に対して相補的ななのである。または干渉現象の観測は個々の光量子の追跡に相補的なのである。最後に古典力学の妥当領域と量子力学の妥当領域とをまさにこの観点の下に相互に区切りをつけることができる。すなわち、古典力学は、原則としてわれわれの知覚から客観的諸事象を推論しようとし、したがっていかなる観測もが観測される事象におよぼす影響を考慮することを断念するというような自然認識へのあの努力を表わしているわけである。だから古典物理学は事象へおよぼす観測の影響をもはや見逃し得ないというまさにそのところにおいて、その限界をもっているわけである。これに反して量子力学は空間・時間的記述と客観化とを一部分断念するという犠牲を支払って原子的事象のとり扱いの可能性をあがないとっている。

 しかし最終的な形が形成されるのは、一部は原則的にはこれ以上には分析不可能な偶然的な要素によるのである。

 これまで量子論が歩いてきた進路は、原子物理学のまだ解明されていないあの特色を理解することが、具象性と客観化とに対してこれまでのありふれた程度を凌駕する断念を行うことによってはじめて達成され得るであろうということを示唆している。

『自然科学的世界像』W.ハイゼンベルク/著、田村 松平/訳より抜粋し流用。