mitsuhiro yamagiwa

2021-08-18

砂と棒

テーマ:notebook

訳者あとがき

 スティグレールの最初の研究テーマは、プラトンのアナムネーシス(想起)だった。人間の魂は不滅であるから、どの人間の内にも前世で観照した真理の記憶が宿っており、何かを知るとは実はそれを想い出すことなのだ――『メノン』

 ところがスティグレールは一見取るに足らないと思われる(それゆえ従来見過ごされきた)ある細部に着目する。少年奴隷はソクラテスとの問答を通じて、地面に図を描きながら正方形の面積を自力で求めるが、砂上に図を描くこと自体が全く問題にされていないというのである。
 図を描く際に用いられた砂と棒は、問題を解く過程においていわば偶有的である(砂や棒である必然性はない)。そもそも、知が人間にとって生得的に内在するのなら、思考内容を目に見える形で描出=外在化する必要はないはずだから、図を描く行為そのものが偶有的であると言える。

 意識は本質的に一つの流れであり、刻々と移ろい行くものである。この意識において、幾何学上の不動の真理に到達するためには、今考えたことを書き記して固定してから次のことを考えるという手順が、われわれの経験に照らし合わせてもどうしても必要になる。

 実際に図形を描いてみるという外在化のプロセスがあって初めて少年奴隷は、正方形に内在する本質を自分自身の内面においても認めるころができるのだが、プラトンにおいてこの視点がすっぽり欠落していることをスティグレールは指摘するのである。外在化、偶有性こそが知の前提条件なのではないか――この発想が哲学者スティグレールにとって「導きの糸」となった。
 少年奴隷とソクラテスの対話を通してプラトンは、潜在的には誰もが真理に到達し得ると示唆している。全く同様にスティグレールも、誰もが潜在的には哲学者であると主張する。ただし、想起(アナムネーシス)を阻害するものとしての人工記憶(ヒユポムネーシス)を排除するプラトンに対して、スティグレールはヒュポムネーシスこそがアナムネーシスを起動し、人を実際に知へと向かわせるとするのである。

 ところで、人工記憶ヒュポムネーシスが生きた記憶であるアナムネーシスに先行する、あるいは一般化すれば、外在性が内在性に先立つという、一見逆説的な事態が生じるのはなぜか。神話によるその理由説明としてスティグレールはプロメテウスとエピメテウス兄弟の神話を挙げる。ゼウスはこの兄弟に、人間と動物を創造するよう命じるが、弟エピメテウスは人間だけ「デュナメイス(潜在的な力)」(スティグレールは「特質」と訳す)を与えるのを忘れてしまった。そこで兄のプロメテウスはその埋め合わせとして人間に技術と火を与える、というのがそのあらましである。

 人間が前もって与えられた適性・役割がない生物であると同時に、自らの運命・自らの時間を自力で作り出してゆくことを運命付けられた、その意味では自由な存在者である。第二に、この欠如の埋め合わせとなる技術を与えられ、技術を用いて道具を作ってはじめて、人間は一人前になり自立するという点である。

 人間の生存が常にすでに人工物によって媒介されることを、スティグレールは「補綴性」と名付ける。
「起源の欠如/根源的欠陥」と「補綴性」は人間存在の条件であり、人間の特質ならざる特質である――この見方は先史学者アンドレ・ルロワ=グーランの知見と一致する。ルロワ=グーランによると、人間は非生物学的な手段を用いて生存を図る生物である。生存闘争に必要な機能・条件が、たとえば石器のような形を取って外在化するプロセスこそ、類人猿のヒト化に他ならない。そしてスティグレールが特に重視するのは、石器などの記憶の媒介になるという点である。こうして記憶の問題と技術の問題は不可分に結びつく。

「後成的系統発生」は、個体が獲得した知識が外在化することで蓄積され、世代を越えて伝わるという人間固有の記憶のあり方、つまり文化のあり方を言い表す概念だ。

 ある知識を持った世代が途絶えてしまっても、その知識をもとにして作られた製作物が残っていれば、その知識は復元される可能性があるからである。

 スティグレールは、この世代を隔てる性質を「ディア(・)クロニック性」と名付けるが、彼にとって言語、特に文字を用いて行なう人間のコミュニケーションの特質は、まさに世代隔絶性である。そしてこの不連続的な伝達を成り立たせるものが、技術なのである。
 技術の所産はすべて、何らかの形で記憶の支持体となる。

 文字を読むことと書くことは表裏一体であり、したがって書物の読み手は潜在的には書き手でもある。

 通常の、「物体」の意味に近い「対象」とは異なり、メロディーのように、それ自体が流れ去る限りにおいて存在する対象がある。時間の流れを存在の要件とするこうした対象は「時間的対象」と呼ばれる。一方われわれがメロディーを口ずさんだりする時のいわゆる「記憶」は、「第二次過去把持」である。

 視聴覚情報の第三次過去把持たるレコードやフィルムによって、全く同一の時間的対象の反復が可能になった。そして何より、それらの媒体の普及により、音楽や映像自体が世界規模で一気に普及し、さらなる文化的記憶が蓄積されていったのである。

 個人の欲望は、マーケティングがはじき出した趣味嗜好の組み合わせへと整流され、個人はその唯一性を奪われ、一定の消費者層へと分類される。いまや世界的な規模で進行する意識のシンクロニゼーションが排除するのは、本来それ自体とは表裏一体のプロセスである。つまり時間的なズレに基づく差異の生成プロセスとして文化を下支えする「ディアクノロニゼーション」が脅かされているのであり、残念ながらその傾向は強まるばかりである。そればかりではない。遺伝子組み換え作物の問題が示すように、テクノロジーの発達は、生体の遺伝情報という「記憶」までもが産業化される可能性を開いた。いまや、あらゆる意味での記憶が短期的利潤の名のもとに選別される。つまり心身が商品の「原材料」にされつつあると言っても過言ではない。

 科学の問いは元来、「それは何か」(本質essence)であった。しかし産業革命以降、技術と結びつき強めた科学において、主な関心は「それから何を作れるか」(生成変化devenir)に移っているというのである。科学の目的が、本質の描出descriptionから生成可能性の書き込みinscription へと変化するにともない、科学はプロセスの客観的な観察者から、プロセスの担い手へとその立場を変えた。スティグレールによれば、この変化を拒絶しても意味がない。人間存在の根源にある「補綴性」の展開によりもたらされた変化なのだから。だからこそ技術について考え続けなければならない。

二〇〇九年一〇月 浅井幸夫

『偶有からの哲学 ― 技術と記憶と意識の話 』ベルナール・スティグレール/著、浅井幸夫/訳より抜粋し引用