mitsuhiro yamagiwa

第4章 意識、無意識、無知

*意識、無意識、無知 いずれもscience(知)を含む語。conscienceは字義通りには「共有の知識」を意味し、そこから「自己の内奥に持つ知」を経て「感情」「意識」の意が生じた。

 すべての行動は、どんなに特異なものであっても、予測可能でなければならず、したがって特異[唯一的]な行動ではなく特殊な行動でなければなりませんが、両者は全く異なります。

 特異[唯一]性と切っても切り離せないリビドーは、たしかに一時的には特殊性へと向きを逸らされるかもしれないし、広告キャンペーンは特殊性へのファンタスムの備給を促進するかもしれません。しかし私の考えでは、そこではリビドーはたちまち枯渇します。特殊性が参照させるのは部分対象という部分ですが、しかし特殊性は特異[唯一]性の土台を必要とします。部分対象はこの土台の代理でしかないのです。

 一般的に言って消費は、リビドーを擦り減らし最終的には枯渇されざるものとして、ある本質的なフラストレーションの土台の上に機能しーー欲求不満の人びとの社会を生み出します。なぜなら消費される対象は、まさしく特異[唯一]性を下支えせずに特殊性へと切り詰めるものとして、幻滅させる対象だからです。その消費はいかなる充足ももたらさず、いかなる喜びも下支えしません。

 消費の対象は実際は、秘かにこの空疎感を強めているだけなのです。そして消費の対象は、嫌悪を蔓延する条件を積み重ねてゆきます。

 もしインターネット上で存在したいのなら、ウェブページやサイトを作りたいのなら、重要なのは当然そのサイトなりページなりが閲覧されることです。ところでそのためには、リンクされなければなりません。

 正しくリンクされるためにはしたがって、個人的な製作物において、産業の過去把持システムにより選別されるための諸条件を、先取りしなければならないのです。

◇ シンクロニゼーションの二つの側面

 ところで言語という事象、つまり言葉のやり取りは、均衡と不均衡の間にあります。言語は均衡に向かうのと全く同様に不均衡にも向かうのです。

◇ 象徴の衰退ーー「私」と「われわれ」の解体

 われわれが事実上陥っている世界ならざるおぞましい場、つまり蒙昧ーーあるいは後ほど私が無知inscienceと名付けるものーーからわれわれはとっさに逃走しようとする、そのような形ではあってもこの傾向に曝されています。

 私が言いたいのは、この現実を免れている、あるいは無知からそう思い込んでいる者の側が、この現実を無視ないしは過小評価するところからは、良いものは何も生まれようがないということです。

 共通世界などという仮定にだまされてはいけません。それはアカデミズムの言説による全くの作り話で、すでに広まっている混乱をひたすら正当化するばかりです。

 社会の統一性を生むのは、社会が持つ象徴の仕組みです。一九世紀までの象徴の仕組みは、知識人の活動の成果でした。

 知識人とは、集団的帰属に関する諸々の象徴を作り出す者であり、それらの象徴がわれわれを構成します。知識人こそがシンクロニックな地平を作り出す。

 ここでいう実験の共通空間が、差異を生む反復の装置です。

 一九世紀まで、知識人の世界は生産の世界とはっきり分かれていましたが、二○世紀になるとこの二つの世界は混ざり合います。知識人たちは生産の世界に呑み込まれる、つまり生産の世界に霧散してしまうのです。

 象徴生産が矮小化され、計算による効果の生産可能性へと切り詰められる時、そしてそれゆえ象徴が短期償却可能でなければならなく時から、選別基準としての象徴ーー象徴はわれわれの第二次および第三次過去把持であって、象徴により第一次過去把持からの、つまり生起する事柄全般からの取捨選択が可能になるーーの生産それ自体が、短期収益性という上位の基準に従属します。すなわち、象徴がディアボルへと反転するのです。
 ここでの難しさは、ディアボルの否定的な面ばかり強調してはならない。という点に尽きます。なぜならディアボルは、個人の特異[唯一性]を生むものであるからです。

 しかし[象徴という]選別基準が内在的になり、ヘゲモニー的に計算に従属されると、象徴とディアボルが完全に分離してしまう瞬間が訪れます。

 象徴的なものの解体が、シンクロニックなものとディアクロニックなものとの分-立に至ると、象徴はディアボルへと反転し、そのことが文字通り悪魔的な状況を招くのです。

*ディアボル diabole スティグレールがギリシア語の動詞diaballeinから作り出した語で、「象徴symbole」の対概念。その綴りから。diable(悪魔)、diabolique(悪魔的な)との関連を強く意識させる語でもある。symboleの語源symbolonは、身元確認用の二つに割った物体を指す。それぞれの破片を持つ者が破片を持ち寄って合わせるsumballein(直訳は「共に投じる、置く」)ことにより、一種の合言葉として機能した。シンボルが共時性の地平を構成し共同体の維持を担保する一方で、ディアボルは隔 – 時化と個の唯一化の契機をもたらす。シンボルは「共有されるもの」としてのその性質から、長期にわたって存続するはずのものである。しかし短期的利潤の名のもとに文化商品が大量消費され、共有空間としてのシンボルの細分化が進むと、単にシンボルの機能不全としてのディアボル、その否定的・破壊的(悪魔的diabolique)側面が露わになる。

◇「意識」の再考――象徴の政治のために

 私を私たらしめているのは、私が自分では体験しなかった過去を継承したその仕方、私に住まう精神[私に取り憑く霊]を継承してその仕方です。その精神は私の祖先の経験から受け取ったもので、文化と呼ばれるものであり、この精神から生まれたさまざまな生き方が私自身の過去、私が体験した過去を構成するのです。

 第三次過去把持はそれ自体が変換するとともに、人間が時間に対して結ぶ関係を変化させ、人間そのものを変化させます。人間とは時間に対する関係に他なりません――人間の第一条件はナルシシズムと、ラカンが語るあの「鏡像段階」ですが、私の見方では、人間はまさに第三次過去把持の内に自らの姿を映し出しているのです。

*無意識の引き取り
「自覚」を意味するフランス語はprise-de conscienceは、字義通りに解すると「意識を取ること」の意。「無意識の引き取りprise d’uncoscience」はこの語法を用いた造語で、無意識を意識の明るみに引き出すこと(=自覚)とは異なり、無意識を無意識として引き取る、受け容れることを意味すると考えられる。

◇ 科学のステータス変化――不動の「イデア」から可能的な「フィクション」へ

哲学は、当時まだ科学と区別されないエピステーメーとして、技術と対立していました。

*エピステーメー (根拠のない臆見に対して)学問的な知識。

 ごく一般的な事実ですが、プラトンからおおよそ一八世紀に至るまで、科学と技術は分離しているだけではなく、はっきりと対立していたのです。
ところがこの状況は、イングランドに始まる産業革命とともに変わります。

 事物の存在、つまり事物の恒常性、本質、安定性を言い表わすことを理想として科学から、事物の生成変化の可能性を探ろうとする科学へと移行するわけです。この科学は現実的なものより可能的なものに対して、存在より生成変化に対して、はるかに多くの関心を向けます。
 技術と科学が対立せずに、以後互いに結びつくと、科学がついにある種のサイエンス・フィクション[=フィクションとしての科学]となります。つまりキマイラを製造できる科学となる。

 今日の科学がどれほど世界に、世界の変貌のプロセスに巻き込まれているのか、そしてこれらのプロセスに担い手となった科学が、当のプロセスの単なる中立的な客観化からどれほど隔たっているのか、その見定めはなされていません。ところがこの担い手としてのポジションが、認識論上きわめて重要な変化なのです。
 
 私は産業の現状に対しては全く信頼感を置いておらず、過去把持選別の将来を産業に委ねることはできません。過去把持の内には、われわれ人間自身という生の本質が宿っているのです。

◇ 二項対立を超えて

 意識と身体の無制限で無批判の(「批判する」はカントにおいては「制限する」を意味します)開発利用[搾取]が、資本にとっていわば自殺的な側面を持っていることを、示せなければならないのです。この開発利用[搾取]は総崩れを招来し、ナルシズムも欲望も破壊することで、結局は市場そのものを滅ぼすでしょう。
 節度と過剰はここでは分離できず、そしてそのことは、悲劇時代における意味にまでさかのぼらなければならないことを意味します。すでにニーチェは、われわれをそこに誘っていました。


 ニーチェがわれわれに説くように、悲劇時代の人びとはものごとを対立させることなく考えていました。彼らは悲劇的シチュエーションとう組み合い、つまりフィクションの解消不能性をも考えていたのです。キリスト教以後に生まれたわれわれも、幕を閉じようとしている西洋のキリスト教史を、悲劇の問題から再訪しなければいけません。この歴史は、悲劇的なものからの脱出と、悲劇的なものの意味の忘却として始まったわけですから。以上がわれわれに課せられている想起です。

 私が言う批判は、悲劇的なものの問題を経由する批判として、偶有を考えることに、人間の運命の根源的に偶有的な性格を考えることに、まずはその本領があります。いうなれば偶有とともに、そしてその意味では偶有を通じて偶有を考え、偶有を哲学すること。それがなければ、反動的な言説がまた一つ増えるだけでしょう。

『偶有からの哲学 ― 技術と記憶と意識の話 』ベルナール・スティグレール/著、浅井幸夫/訳より抜粋し引用