mitsuhiro yamagiwa

見えるものと見えないもの

 自分の身体をいつまでも奇蹟的に優美さを失わないものとして生きることのできる可能性は、じっさい身体能力がこの承認につりあったものであればそれだけ大きなものとなる。あるいは逆に、身体を居心地の悪さ・窮屈さ・気後れなどの試練にあわせなくてはならない可能性は、理想の身体と現実の身体、つまり夢見られた身体と、よく言われるように他者の反応が送りかえしてくる鏡の中の自分とのあいだの不均衡が大きければ大きいほど、それだけ増大するのである(言葉についても同じ法則があてはまる)。

 現象学者たちの言う「対他的身体」とは、二重の意味で社会的な産物である。すなわちそれはまずその弁別的特性を自らの社会的生産条件から受けとるのであるが、いっぽう社会的視線とはサルトル的視線のように普遍的で抽象的な客観化の力なのではなく、ひとつの社会的な力なのであって、その効力の一部分はつねに、おのれにたいして適用されている知覚・評価カテゴリーへの承認がその視線の対象となる者のうちに見られるていう事実から生じるものであるという意味で、二重に社会的なのだ。

 社会界のプチブル的経験とは何よりもまず気後れである。すなわち自分の身体および自分の言葉にたいしてどこか居心地の悪さを感じ、それらと一体をなすのではなく、自分の言動に気を配り、自分の振舞いをあらため、言葉を訂正しながら、いわば外側から他人の目でそれらを観察している者、そして疎外された対他存在を回復[再所有化]するために絶望的な試みをおこないながら、その修正の行き過ぎと無器用さによってはからずも自らを露呈してしまい、まさに他者による自分の身体や言葉の所有化にきっかけを与えてしまうような者、そんな者の抱く困惑である。つまりそれは、他者によって客観化された身体を意に反して現実のものにしてしまい、集団の知覚や言表行為によって差しだされた宿命のうちに封じこめられてしまうような気後れであり(たとえば仇名や異名のことを考えていただきたい)、受動的で無意識的な反応(顔が赤らむのを感じるというような)にいたるまで他者の抱いている表象に支配されている身体によって、ふと露呈されてしまうものなのだ。これにたいしてゆとりというのは、他者の客観化する視線にたいする一種の無関心であって、その視線の力を骨抜きにしてしまう。それはこうした他者による客観化をさらに客観化することができるのだという確信、他者による所有化を逆に自分のものとして所有化することができ、自分の身体の統覚規範を他者に押しつけることができるのだという確信、要するにあらゆる力、身体のうちに宿って外見上はそこから貫禄や魅力といった固有の武器を受けとっている場合でさえも、身体には本質的に還元することのできないようなあらゆる力を、自分は備えているのだと確信ーーそうした確信が与えてくれる自信というものを、前提としている。

 こうしたすべてのことから「偉い人」を実際よりも大きく感じさせるように論理というのは非常に一般的に適用されるものであること、そしてどんな種類のものであれとにかく権威というのはかならずある誘惑力を秘めているものであり、これをたんに私心のからんだ卑屈なへつらいの結果としてしまうのはあまりにも単純すぎるであろうということがわかる。政治的抗議というのがつねにカリカチュア(諷刺漫画、戯画)という手段に訴えてきたのも以上のような理由による。つまりカリカチュアというのは魔力を解き、権威の押しつけ効果を支える原理のひとつを嘲笑することを目的とした、身体イメーの歪曲手段なのだ。

 *原文のrompre le charmeは、「魔法を解く」という意味であるとどうじに、文字通り「魅力をこわす」という意味をかけている。

 カリスマ的な指導者というのは結局、象徴闘争における被支配者たちのように自分自身にたいして他者にとっての自分であるのではなく、集団にたいして自分にとっての自分であるのに至るのである。よく言われるように、彼は自分を作る世論を「作りだす」。彼は権力の象徴作用によって、輪郭を描きえぬもの、外部をもたぬもの、絶対的なものとなってゆくのであるが、この権力の象徴作用は、彼が自分自身の客観的イメージを生産しそれを他者に押しつけてゆくことを可能にするものであるがゆえに、彼の権力の構成要素となっているのである。

象徴闘争

 社会的位置というのは、観察者の眼にはたがいに重なり合うことなく、静態的秩序のなかに並列された複数の場所であるように見え、それらの場所を占めている諸集団間の境界がどこに引かれるのかという純粋に理論的な問題を提起するように思われるのだが、じつはまた同時に戦略的な場所、ある闘争の場において防御や攻略の対象となる陣地でもあるからだ。

 文化とは、あらゆる社会的闘争目標[賭金]がそうであるように、人がゲーム[賭け]に参加してそのゲームに夢中になることを前提とし、かつそうなるように強いる闘争目標のひとつである。

 すなわち、文化とは何の役に立つのかと問うこと。

 正統性の最も確実なしるしは、その正統性が主張されるにあたっての自信、よく言われるように「相手を圧倒する」自信であるから、はったりというのは、もしうまくいけば、そして何よりもまず相手もはったり屋であった場所には、自分の存在状態の限界をまぬがれる唯一の方法となる。

 プチブルとは、客観的には被支配者側の立場にありながら、意図の上では支配者側の価値に参加しようとするために生じるあらゆる矛盾にさらされ、自分が他人の判断にゆだねる外見に、またその外見について他人が下す判断に、絶えずつきまとわれている者のことである。

 いつも他者の視線にさらされ、絶えず他者の眼前で自分を「引き立たせる」ことに汲々としている「外見の人」として見られる運命にある。 

 客観主義のあやまち。

 ゆとりの完全な定義のなかには、だから次のものを再び導入してやらねばならない。つまりアリストテレスの言う美徳と同様に、ゆとりがある種のゆとりを要求する(あるいは逆に、窮屈さが窮屈から生まれる)ということに留意するあまり人が破壊してしまうもの、すなわち、あるべき姿であるためにはただ今ある自分でいさえすればいいような人々が、彼らの存在そのものによって実現する押しつけ効果を導入してやる必要があるのだ。この完璧な一致はまさにゆとりの定義そのものであり、また今度はゆとりのほうが、今ある存在とあるべき存在とのこうした一致を証しだて、そこに含まれている自己肯定の力を証明するのである。

 そしてあらゆる「純粋」美学の根本にある、安易なものの拒否ーーこれらすべて、主人と奴隷の弁証法のこうしたヴァリアントの反復である。そしてこの弁証法的関係を通して、所有者たちは自分の所有物にたいする所有を明確にし、そうやって非所有者たちとの距離を広げてゆくのだが、非所有者たちはあらゆる形で必要性に従属させられていることに満足せず、いまだに所有欲にとりつかれ、したがって潜在的には彼らがいま所有していない、あるいはいまだ所有するにいたっていない所有物にとりつかれているのではないかと思われるのだ。

『ディスタンクシオン I 社会的判断批判』ピエール・ブルデュー/著、石井 洋二郎/訳より抜粋し流用。