mitsuhiro yamagiwa

2023-03-17

直接性そのもの?

テーマ:notebook

B 意識という規定のもとに見られた絶望

a  自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠な自己というものを、もっているということについての絶望的な無知

 人間はだれでも、精神たるべき素質をもって創られた心身の総合である。これが人間という家の構造なのである。しかるに、とかく人間は地下室に住むことを、すなわち、感性の規定のうちに住むことを、好むのである。

 絶望と無知の関係は不安と無知の関係と同じである〔ウィギリウス・ハウフニエンシス著『不安の概念』を参照。〕

b  自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、ある永遠なものをうちに含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、絶望して自己自身であろうと欲しないか、それとも、絶望して自己自身であろうと欲するか、そのいずれかである

 このようにして、意識的な絶望には、一方において、絶望が何であるかについての真の観念が要求される。

 ところで、絶望していることの反対は、信仰していることである。

a 絶望して、自己自身であろうと欲しない場合、弱さの絶望

 反抗というものが全然なければ、絶望は存在しないのである。事実また、自己自身であろうと欲しない、ということばのなかには、反抗が含まれているのである。

1  地上的なものについての、あるいは、地上的なあるものについての絶望

 絶望は単なる受難であり、外部からの圧迫に屈することであり、行動として内部からあらわれることはけっしてない。

 すなわち、直接性そのものはきわめて脆いものであって、少しでも「度を超えた者」が直接性に反省を要求すると、直接性は絶望におちいってしまうのである。

 直接性は、絶望するとき、自分がならなかったものになっていたらと願ったり夢見たりするだけの自己をさえもってはいないのてある。

 そこで直接的な人は、別の方法に訴える、つまり、別の人間になりたいと願うのである。

 ほんとうに、もし彼が別の人間になったとしたら、どうであろうーーそしたら、彼に自分の見分けがつくものだろうか?

 彼の突き当たった困難は全直接性との絶縁を要求するが、その要求に応ずるには、彼に、それだけの自己反省ないし倫理的反省が欠けているのである。彼は一切の外的なものからの無限の抽象によって獲得される自己というものについて意識をもっていない。このような自己は、外皮をまとった直接性の自己とは反対に、はだかの、抽象的な自己であって、ここに、無限な自己の最初の形態があり、自己がその現実的な自己をそのさまざまな難点や長所もろともに無限に引き受け全過程における推進力があるのである。

 かくして彼は絶望する、そして彼の絶望は自己自身であろうと欲しないことである。

 彼は自分の自己にたいする関係を保持しており、そのかぎりにおいて、反省が彼を自己に結びつけている。

 世間でたいへんもてはやされている処世訓の根底に、つまり、りっぱな忠告や賢明な格言、時世に順応せよとか、自己の運命を甘受せよとか、忘却の書物に書き込めとかいう、あらゆる処世知の寄せ集めの根底に、よく考えてみると、危険が実はどこにあり、何が実は危険なのかということについての完全な無知蒙昧さがひそんでいるとしたら、それは、無限に喜劇的なことである。

 青年の未来のうちに現存するもののように未来のものについて絶望する。そこには、彼がわが身に引き受けることを欲しない未来のものがあり、それによって彼は彼自身であることを欲しないのである。

 自己はまず現実的な喪失を無限に高め、かくして地上的なもの全体について絶望するのである。しかし、この差異〔地上的なものについての絶望と、地上的なあるものについての絶望とのあいだの〕が本質的なものとして主張されることになるやいなや、自己についての意識のうちにもまた本質的な進歩がなされたことになる。そこで、地上的なものについて絶望するというこの定式は、絶望の次の形態を表わす弁証法的な最初の表現なのである。

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。