a 可能性の絶望は必然性を欠くことである
有限性が無限性にたいする限定者であるのと同じように、可能性にたいしてこれに対抗するものは必然性である。
自己は自己自身であるかぎり、自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべきものであるかぎり、自己は可能性である。
ところで、可能性が必然性をあとにして独走すると、自己は可能性のなかで自己自身から逃亡し、かくして、自己の帰るべき必然的なものをなんらもたないことになる、これが可能性の絶望である。
自己自身になるということは、つまり、その場所での運動にほかならない。生成することは、その場所からの運動である。
いまなにかが可能なものとしてあらわれる。するとそこにひとつの新しい可能性があらわれる。ついには、これらの幻影が次から次へとやつぎばやに起こってきて、どんなことでも可能であるかのように思われてくる。そしてそのときにこそ、個人がみずからまったくひとつの蜃気楼になりきった最後の瞬間にほかならないのである。
しかし、もっとよく見てみると、彼に欠けているものは、実は必然性なのである。すなわち、哲学者たちが説くように、必然性が可能性と現実性との統一なのではなく、そうではなくて、現実性が可能性と必然性との統一なのである。
自己が自己自身の可能性のなかでこれこれに見えるということは、半分の真理でしかない。なぜかといえば、自己自身の可能性においては、自己はまだ自己自身から遠く離れており、あるいは、ただ半分だけ自己自身であるにすぎないからである。そこで問題は、自己のこの必然性が自己をもっと正確にはどのように規定するか、ということである。
可能性を必然性へ連れもどそうとはしないで、彼は可能性のあとを追いかけるーーそしてついに、自己自身への帰路を見いだすことができなくなるのである。
β 必然性の絶望は可能性を欠くことである
人間的にはそれが自分の破滅であることを悟りながら、しかもなお可能性を信じること、これが信じるということなのである。
信じる者は、可能性という、絶望にたいする永遠に確かな解毒剤を所有している。
健康とは、一般的に言えば、矛盾を解きうるということである。
可能性を欠くということは、ある人にとって、一切のものが必然的になってしまったことを意味するか、それとも、一切が日常茶飯事になってしまったことを意味するか、そのいずれかである。
決定論者、宿命論者は、絶望しており、絶望者として、その自己を失っている。彼にとっては、一切が必然だからである。
人格というものは、可能性と必然性との総合である。
祈ることは呼吸することでもあり、可能性と自己との関係は、酸素と呼吸との関係に等しい。
俗物根性は無精神性であり、決定論と宿命論は精神の絶望である。
俗物は想像力をもっていないし、またもとうともしない。むしろ想像力をきらうのである。それゆえ、ここには救いというものがない。
すなわち、可能性のなかに迷い込む者は、向こう見ずな絶望によって宙に跳びあがり、一切が必然と化した者は、絶望におしつぶされて人世の重みにくじけるが、俗物根性は精神がないおかげで勝ちほこれるわけである。
『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。