mitsuhiro yamagiwa

2023-03-19

絶望と反抗

テーマ:notebook

2 永遠なものにたいする絶望、あるいは、自己自身についての絶望

 人が自己自身について絶望するということがあるとすれば、もちろん人はまた、自己をもっていることを意識しているのでなければならない。なぜかというと、人がそれについて絶望するところのもの、それは地上的なもの、あるいは、地上的なあるものについてでははなく、自己自身についてだからである。

 自己は絶望して、いわば自己自身についてなにを聞こうともせず、自己自身についてなにひとつ知ろうともしないのである。

 一般に、孤独への要求は、人間のうちに精神があるということのしるしであり、またそこにある精神を測る尺度である。彼は絶望して直接性へもどろうとする。しかし、彼は、彼があろうと欲しない自己についての意識に、たえず付きまとわれているのである。

 自分の弱さについての絶望こそ、反抗の最初の表現にほかならないことが、弁証法的にいかに正しいかが明らかになる。

 けれども、自分で他人に心を打ち明けておきながら、打ち明けたそのことについて彼が絶望し、一人の関知者を得るよりもむしろ沈黙を守り抜いたほうがどれだけよかったかしれないと彼に思われることもありうるのである。

β 絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗

 反抗が永遠なものの力による絶望であればこそ、反抗はある意味で真理のすぐ近くにあるのであるが、しかしまた、真理のすぐ近くにあるからこそ、反抗は真理から無限に遠く隔っているのである。信仰への通路である絶望もまた永遠なるものの力によるものであって、そこでは自己は、永遠なものの力によって、自己自身を得るために自己自身を失う勇気をもつのであるが、それとは反対に、反抗にあっては、自己は自己自身を失うことから始めようとしないで、自己自身であろうと欲するのである。

 ここでは、絶望はひとつの行為として自己を意識している。すなわち、絶望は、外部の圧迫による受難として外からくるのではなく、直接に自己からくるのである。

 彼が絶望してそれであろうと欲するものはまさにこの自己なのであり、それだから彼は自己を、自己を措定した力にたいするあらゆる関係から引き離そうとしたり、あるいは、そのような力が現に存在しているという観念から自己を引き離そうてするのである。この無限な形態の力によって、自己は絶望的に自己自身を意のままに処理しようとし、あるいは、自己自身を創造し、自分の自己を彼がありたいと欲するその自己に作りあげ、自分の具体的な自己のうちにもっていたいものとそうでないものとを自分で決定しようとする。

 絶望せる自己が行動的な自己である場合には、たとえそれがなにを企てようと、どれほど大きいことを、どれほど驚嘆すべきことを、どれほど根気よく企てようとも、自己は本来つねにただ実験的にのみ自己自身に関係しているのである。

 自己は自分を支配する力を認めない、それゆえに、その自己には、結局、真剣さが欠けている。ただ、自己が自分の実験に最大の注意を向ける場合に、いかにも真剣なような外観をよそおいうるだけのことである。しかしそれは偽りの真剣さでしかない。

 彼は自分の全情熱を投げかけると、すると、この情熱がついに悪魔的な狂暴となるのである。

 彼は全世界から、全人世から不当な扱いを受けた者でありたいのである。彼には苦しみを自分の手もとにもっていてだれにも奪われることのないように心がけることこそ重大なのであるーーだって、そうでなければ、彼は自分の正しいことを証明することも、自分自身に納得させることもできないわけではないか。

 わたしたちは、絶望して自己自身であろうと欲しない、という絶望の最も低い形態からはじめた。悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちで最もその度を強めた形態のものである。

 いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。