mitsuhiro yamagiwa

2024-01-12

水平性を目指す戦い

テーマ:notebook

12 革命のケアーーボグダーノフ

 ゲシュテルはまた「装置」を意味する。

 ハイデガーは技術社会的な装置がわれわれの世界の眺めを枠づけると論じている。しかし、まさにわれわれの眼差しを方向づけ、枠づけるからこそ、われわれはゲシュテル(ドイツ語で「骨格」)を見逃すのである。

 ボグダーノフは、水平的な社会は、いまだ相互理解のための言語および他の儀式を使用しなければらならないことを示す。

 それは、水平性を目指す戦いはその現実のゴールに到着し損ねていることを意味する。民主化された社会は、権威ある権力でなく、社会の骨格、ゲシュテル、つまりその社会が使用するコミュニケーションのルール、決定する際の儀式、共通言語、共通の生活様式、技術によってコントロールされている。さらなる民主化と水平化を要求すると、手続き上のルールを作り、共同生活の技術を作ることになる。そしてさらに重要なのが、こうして社会の骨格がよりいっそう柔軟さを欠き、硬直したものになることである。

 革命は、新たな義務ではなく、安堵の感覚を生み出さなければならない。

 ニーチェにとっては、有数の物質的世界において、起こりうる出来事の数が限られていることは、世俗の存在は同じものの永劫回帰の法に従属していることの証拠であった。

 「何もかもが繰り返しなんだ!」

 アレントが正しくも述べているように、苦痛においてしか人は真に生きているものとして自分自身を見出すことができない。

訳者解題ーーケアと利他から人間を考える

1 なぜ美術批評家がケアを論じるのか

グロイスはキルケゴール、ハイデガー、コジューヴ、ベンヤミンらを取り上け、これらの思想家が哲学で問題となる「論理、数学、一般的な思考」といった真理と普遍性の探求を棄て、「怒り、退屈、欲望、過剰」といった、どんな人間でも日常的に経験するような世俗的なテーマを扱っていることを指摘し、これらの思想の「反哲学」の系譜を探っている。グロイス日常実践における諸問題を哲学の課題に転化する反哲学を、日用品を芸術作品にしたデュシャンにならって、「レディメイド哲学」とも呼んでいる。

2 本書を読み解くために

 具体的に象徴的身体に含まれているものとは、身分証明書、医療カルテ、SNSやネット上のアカウント、本人が書いたテキスト、写真、動画などである。つまり本人についてのドキュメントと本人が作成したドキュメント全般が象徴的身体となる。そしてグロイスは、「自己」とは物理的身体と象徴的身体の組み合わせであると見抜く。

 彼によれば、健康保険証や病歴を記したカルテに顕著に見られるように、物理的身体のケアは象徴的身体に媒介されて行われる。

 また象徴的身体は物理的身体の死後にも、墓碑、図書館、美術館、サーバなどに保存され「ケア」される。つまり、象徴的身体は他者によって書き換え可能であり、自己の一部として象徴的身体を持っている個人のアイデンティティは、他者たちが作り上げたものだとすらいうことができる。

 SNSを見れば明らかなように、インターネット上ではわれわれは自分自身の容姿やライフスタイルに関してセルフプロデュースを行い、他者の目に晒される自分をコントロールする。グロイスはこのようなセルフデザインを自己防衛であるとし、一種のセルフケアとみなしている。

 セルフケアはシステムとしてのケアを超越し、対抗し、脅かすものにもなるのである。

 人間とは、健康と生命を何よりも気にかけるにもかかわらず、自らそれを毀損してしまうような、矛盾に満ちた存在なのである。そのようなアナーキーな存在であるからこそ、生政治国家によるケアのコントロールから逃れる可能性を秘めている。

 グロイスはハイデガーの現存在をケアする存在容態として捉える。客体である世界に対立する主体としての人間ではなく、世界内存在として捉えられた人間が現存在であるが、まさに世界の中に存在し、世界を気にかけることにもなる。医療ケアに代表される近代の技術は、人間を医療の対象である「生の素材」として扱うが、現存在は他者によってコントロールされ、物になることに抗う。いわばセルフケアする現存在は、そもそも公的なケアに抗う存在なのである。

 グロイスはハイデガーを、自己肯定として理解されるセルフケアと近代の公的ケアの制度との矛盾を初めて哲学上で問題にした哲学者とみなす。

 それ自体が価値を持ちケアに値する、あるいは場合によってはその価値が損なわれたりするという点で、芸術作品と人間は等しい。

3 利他とケア

 利他となるかどうかは行為が行われた時点では分からず、事後になって初めて利他となるかが判明する。「与えるとき」ではなく「受け取るとき」に利他は起動する。行為者にとって利他は未来からやってくる。

 「自分を深めることと他者の救済は一つである」

 まさに芸術においては、作品という事物を「受けとるとき」に利他が発動し、時にそれは作者の意図とは無関係な場合すらあるのだ。

 そもそも、新自由主義の台頭により福祉部門が削減され、ケアサービスがビジネス化されたことによりケアを受ける人たちの間の格差が生じたことや、低賃金あるいは無償労働としてケア労働が女性そして移民に割り振られてきたことは、高齢化社会やジェンダーの問題として従来から指摘されていた。そのような状況の中、世界的な新型コロナウィルスの流行を機にケアに対する関心が一気に高まった。

 利他は意外性を伴い、相手の隠れた可能性を引き出す同時に自分自身も変わる可能性を秘めているという点が挙げられる(伊藤亜紗「うつわ」的利他)。

 利他学における人間は、強固な意志や確固たる意識を持って利他行為を行うのではなく、他者との関係において行為の意味を事後的に認識するような人物像として捉えられている。

 ケアは受け手が目の前にいるが、利他においては受け手が未来にいることもある。

 利他は自発的に行われるという点で自動詞的、あるいは意志の有無が不問にされるという点で中動態的であると言うこともできるだろう。

 利他学やグロイスの考察がもたらす、人間は当人の意識や意志を超えた存在であるという認識は、われわれ誰もが関わらざるを得ないケアの実践に、「ニーズ」への関心を超えた新たな視点を開いてくれるのではないだろうか。

 二〇二三年四月

『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳