mitsuhiro yamagiwa

11 仕事と労働ーーアーレント

 アレントは、「労働力」という概念を導入することにより、マルクスが仕事と労働の関係を転倒させ、生産的な仕事を非生産的な労働、つまり労働行為に従属させたことを議論する。ケアに関する労働は非生産的であるが、何か他のものを生産する「労働者」を生み出す。人間は「生産性」を有しているのである。

 この生産性は労働の生産物にあるのではなく、実に人間の「力」の中にある。

 こうして、「すべての物が客観的で世界的な特質において理解されるのではなく、生きた労働力の結果であり、生命過程の機能であると理解される」ために、全ての仕事は労働となる。

 「知的作業」は生きた有機体ではなく、巨大な官僚的機械をケアするからである。

 現存在がセルフケアを実践するとき、自分の世界に配慮する。現存在が生命となるとき、別の者がそれをケアする。だがどのようにして現存在は生命となるのか?

 私有財産の最初の形式は人間の身体のプライヴァシーである。私有財産の発達は、人間の身体による環境の搾取の過程を通した、プライヴァシーの拡大とみなすことができる。

 しかし公衆とケアの私的な制度の出現、そしてそれと並行するケアワーカーを含む労働運動の勃興はプライヴァシーの喪失をもたらす。私自身の身体はもはや私には属していない。生殖機能を含むその生理的な機能は、政治的な議論と官僚的な手続きの対象となる。誰もが苦痛の不安の中にいるが、それは自分の世界を喪失することと、ケア対象としての社会化の不安の中にいることを意味する。

 ケアのシステムとは、それを通して社会化された身体の自然との新陳代謝が生じる媒介である。この身体は物理的であると同時に政治的である。身体の最も私的な機能が制度上アクセス可能となり、公の議論の議題となる。

 ブルジョワ社会では身体は政治的な正当性を失い、社会的活動もしくは仕事のために使用される単なる道具となった。その結果、身体はその象徴的地位によって互いに分離され始めた。ごく私的な経験はセックスおよび戦争においてのみ到達し得た。それは象徴的秩序の支配から除外された状況にあるということを意味する。反対にケアのシステムにおいては、あらゆる身体はごく私的なものであると同時に政治的である。ここでは、ごく私的なものと政治的なもの、物理的身体と象徴的身体が一致する。

 インターネットは受動的である。われわれの欲望、われわれの質問、われわれのクリックに反応するだけである。しかしインターネットは単に鏡ではなく、欲望する自分としてのわれわれのイメージを生み出すカメラでもある。

 インターネット時代初期には、この新たなネットワークのツールにかんする奇妙な信頼があった。時がたつとこの信頼は完全に失われた。それはインターネットにおける監視が広くて知られるようになったせいだけではなく、あらゆる種類のヘイトを撒き散らす手段としてネットワークが使用されるせいである。この意味において、自分のことを私的なものにすることは、何よりも自己防衛の目的に役立つ。生命は個人の身体を放棄したのであり、象徴的身体は痛みを経験することができない。ナルシスティクに自分自身を晒すことは、ここでは麻酔として機能する。

 ここでは自分自身の身体を晒すことは模倣として機能する。

 実際、模倣は通常体制順行主義、つまり平均になろうとする防衛の欲求、他の誰もと同じように見せ、振る舞うことと関連している。

 創造性とは、外的エネルギーや権力への意志の噴出ではなく、むしろ背後に隠された弱い物理的身体を保護する、そのような噴出の巧みな模倣である。

 それは、芸術とりわけ絵画は常に、芸術家を他者の眼差しに晒すのではなく、眼差しに晒すことから守る方法であることを主張するためである。ラカンが述べているように、他者の眼差しを彼自身の身体から彼の作品の身体へと方向転換させようとする。そしてこのようにして、邪悪で害のある鑑賞者の眼差しを解放しようとする。ここでは創造性は、芸術的な意図を世界に押しつけるエネルギーの過剰の効果ではなく、他者からの攻撃に対して弱いものを守るものとして理解されている。自分自身のプライベートで私的な身体、そして身体の必要性と欲望を明るみにすることは、他者の邪悪な眼差しに耐えうる、防衛としての象徴的身体を創造する最も経済的な方法である。

 われわれの文化はしばしばナルシスティクなものとして記述される。そしてナルシズムは自分自身に完全に集中すること、社会への興味の欠如として理解される。

 現代のナルシスたちほど社会のサバイバルとウェルビーイングに関心がある者はいない。

 なぜならそれは、唯一の真の精神的な承認の代替でしかない「世間の」承認、内的な価値の代替である外的な価値だったからである。社会に対する主体の関係は、第一に信仰および倫理的関係である。

 セルフデザインとは自己防衛とセルフケアの形式である。

 セルフデザインの主体は承認を見出し、賞賛を受けるために社会の存在と構造にも興味を持つ。ナルシスティクな承認欲求は社会の象徴的秩序の存在を強化する。なぜならば、この欲求が向けられるのはそれらの構造だからだ。ここで人間の身体は、美術館のアイテムと同じ芸術作品となる。それは好かれること、関心を持たれることを望んでいるのだ。

『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳