mitsuhiro yamagiwa

2022-09-18

歴史の解消

テーマ:notebook

第五部 有限な歴史

1

 共同体は実体でも主体でもなく、プロセスや進歩の目的や到達点でありうる一つの共同存在でもないということーーそうではなく、単に起こるだけの〈共同での存在〉であるということ、あるいは(共同での存在〉が出来であり、一つの「存在」というよりも出来事であるということだ。さらに言えば、それは存在それ自体の出来である。つまり、存在そのものの実在の非-無限性なのであり、これを私は、有限な歴史として示してみたい。

2

 これは周知のことだが、ヘーゲルが述べているように、「周知のことはまた認識されているわけではない」。3

 歴史とは主体それ自体の存在論的構成である。

 歴史の歴史性とは今日、われわれの思考に対して断固として「理念の外で」思考するよう促すものなのかもしれない。

 解消された歴史とは現前化された歴史である。

 われわれがすでにこの解消と「歴史的」関係をもっている限りでは、われわれはおそらく別種の「歴史」に露呈されているのであり、この観念のもつ別の意義へと、あるいはおそらく別の……歴史の歴史へと露呈されているのである。

 「世界は事実上、けっして実在したことがない。世界史というその外見においては、歴史は一つの帰結なのだ」マルクス

4

 「われわれの時代」とはまさしく何よりもまず時間のある種の宙吊りを、つねに移ろい逃げ去っていくものとみなされた時間のある種の宙吊りを意味している。純粋な流れが「われわれのもの」であることはないだろう。

 それが意味しているのは、時間を止めたり時間であることを止めたりすることないままに時間のもつ何かが、言ってみれば時間性としての何らかの時間性が、ある種の空間、ある種の場のようになるということだ。その場は、所有というきわめて奇妙で謎めいたある一つの様態に則って、われわれにとっては一つの領域となることもあるのだ。

 空間の固有の操作とはどのようなものだろうか。空間は空間化するーーハイデガーがそう書いているとおりだ。時代のなかで、そして時代を通じて、いったい何が空間化されるのだろうか。それはすでに空間化されている空間の点ではない。そうではなく、時間性それ自体の点である。これは、つねに出現してはつねに消滅する時間の諸々の現在にほかならない。この空間化(これは、そのままみれば時間に関わる一つの操作である。空間と時間はここでは解きほぐしがたく絡み合い、もはやそれらをめぐらるほどの哲学者的モデルにしたがっても考えることができない)ーーこの空間化は時間それ自体を空間化し、時間の連続的現在から時間を空間化する。

 出来は現在と現在との間、流れと流れとの間で起こるのだ。

 出来が意味しているのは、時間のある種の空間化ーーそこでは何かが生起するーーを提供するということ、時間そのものを開くということである。今日、われわれにとって歴史的出来事として、われわれが歴史のなかで現に現在的に存在する仕方として生起しているのは、歴史の解消なのだ……。

 「われわれ」と述べるには、われわれが共通の時間というある種の空間のうちに存在していなければならないーーたとえわれわれが、人類なる全体性を包含するたった一つの「われわれ」として「われわれ」と述べているのだとしても。

 たった一日のことでも問題となることがあるーーあるいはそういうことも起こりうる。それはたった一日の歴史でもありうる。

 時間といっても空間化する時間そして/あるいは空間化された時間であり、「われわれ」に「われわれ」と述べる可能性ーーつまり共同で存在し、またわれわれが共同体としておのれを呈示したり表象したりする可能性ーーを与える時間である。

 始まりから、歴史の始まりの歴史的時間から、歴史は実際に共同体に属してきたし、共同体は歴史に属してきた。単独の個人の歴史や単なる一家族の歴史は、それが共同体に属しているときにのみ歴史的なものとなる。

 意味とは起こるものの意味作用ではなく、何かが起こるという事象の意味作用なのである。それは、たとえわれわれが自分のことを無意味と考えるにしても、たとえ(われわれが自分たちの歴史全体を通じてふだん行なっているように)われわれが歴史を不条理へと変えてしまうとしても、われわれがその内部で実存すべきであるという意味だ。意味とは、おそらくそれ自体出来なのであり、あるいは出来のなかで、歴史の意味作用のなかへの歴史の解消の彼方そして/あるいは手前で、つねに起こっているものである。

5

 共同体とは何だろうか。共同体は、個人性そのものを拵えた後の個人の集合なのではない。というも、個人性はそのような集合の内部てしか立ち現われないからだ。このことはさまざまなやり方で考えうる。例えばヘーゲルにおいては、自己意識が自己意識となるのは、別の自己によって主体が一つの自己として承認されるときでしかない。このいずれの場合も、「私」は「私」に関わるこのやり取りやコミュニケーションに先立っては存在しない。

 共同体やコミュニケーションがむしろ個人性を構成するのであって、その逆ではない(その個人性とは、つまるところおそらく共同体の一つの限界にすぎない)。

 共同体とは、コミュニケーションをとおしてしかそのようなものとして実存せず、互いに切り離されている、「個々の特異存在」のコミュニケーションにほかならないからだ。

 共同体とはそれゆえ、抽象的関係や非物質的関係でもないし、共同の実体でもない。それは共同の一存在ではなく、一つの共同での存在である、あるいは他者と共に[avec]誰かであるということ、一緒に[consemble]いるということなのだ。そして一緒にが意味しているのは、特異存在の内部にも外部にもない何ものかである。

 「一緒に」(そして「われわれ」と述べる可能性)は、何らかの共通の「内部」が形成されねまま内部が内部として外部となるところに場をもっている[生起する]。「一緒に」は、全体の質をもたないという様態に属している。それが実存であり、いかなる本質ももたないが、実存としてのその唯一の本書なのである。

 つまり、実存するということが意味しているのは、存在者の直接的現前のうちには、あるいは存在者の内在性のなかには存在しないということなのである。実存するということは、内在的ではないということであり、あるいは自己自身へと現前せず、一人では現前しないということなのだ。

 だが、実存の他性が出来するのは「共存在」としてでしかない。

 共同体とは他者たちの共同体である。このことは、複数の個人が自分たちの差異を超えて何らの共通の本性をもっているということではなく、複数の個人が端的に自分の他性に立ち会っているということを意味している。*他性とはそのつど各々の「私自身」の他性であり、その「私自身」は他者としてのみ「私自身」なのである。他性とはある共同の実体ではない。

 共存在とは他性なのである。

 実存の他性は、自己への非-現前のうちにある。

 私の始まりとわたしの終末とはまさしく、私が私のものとしてはもちえないものであり、誰も自分のものとしてはもちえないものなのである。

 われわれとは一つの存在ではなく出来なのだ(あるいは、存在はわれわれのうちにあって、出来するということに露呈されている)。

 「歴史」という語の「最小限の意味」、あるいはその「意味の核」とは、出来事の連続ではなく、出来事に共通の次元である、と述べることさえできるかもしれない。つまりそのものとしての、出来する限りでの「共同なるもの」、これはまさしく、共同「なるもの」が実体や一つの主体として与えられているのではなく、歴史的なもの「として」出来するということだ。

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。