mitsuhiro yamagiwa

2022-09-16

固有なもの?

テーマ:notebook

第四部〈共同での存在〉について

 存在は共同に存在している。

 われわれは、存在論が共同体的なものとしてそのまま直接的に捧げられるべき地点にはまだまだ達していない。

 存在の共同体ーー共同体の存在ではないーー、これこそ今から検討せねばならないことである。

共同体とは単に実存の現実的定立なのである

 実存とはものの「単なる定立」なのだ。

 実存者において問題なのは、実存であって本質ではない。

 つまり本質は、単なる存続としての存在の外、あるいは内在としての存在の外に存在するということーーあるいは実存するということーーに露呈されているのだ。

 内在的存続のうちには自己がない。本質はその諸々の述辞と共にある。

 自己とは主体[主語]ではないのだ。自己で在るということではなく自己へと在るということが、露呈としての実在の存在条件なのである。

 自己とは、存在の出来、到来、出来事なのである。

 したがって、本質が自己のうちに[即自的に・それ自体として]在るということは、本質の存続でも属性でもなく、自己へと存在するということであり、実存することの語尾変化に露呈されて在ることなのだと述べねばなるまい。

 すなわち、本質とは、存続者の露呈された面なのであり、露呈された限りでしか実存せず、存続の内部からは、そして厚く不透明で露呈されず内在的で、要するに実存していない中止からは、けっして到達されず我有化されない面なのだ。

 露呈されざるもの(あるいは現前化されざるもの)とは、非実存者である。

Ⅱ (〈共同での〉の意味)

 意味とは定義からして共同であり、通わせるものであり、通わされるものであり、共同でのものだ。

 意味は、何か他なるものに結びつけられた限りでの自我に対する、私の関係を形作っている。

 「知覚可能な」意味[感覚]から他のあらゆる意味にわたって、意味[感覚]の意味とは、外から触発され、外に侵され、外を侵すということだ。意味は「共同での」もつ分有のうちにある。

 ーーヘーゲルの別の有名な表現にしたがって言い換えて、「現実的なものは理性的である」とすれば、それはつまるところ、現実的なものと理性的なものとの同一性を「理由として差異を理由としているに違いないーーだとすれば、意味として同時に思考として「理性=理由」と呼ばれるものは、この差異の連接に存していることになるだろう。このことから、「理性」(表象や科学や哲学の言語)についてと同様、「現実的なもの」(感覚的なもの、身体、物質、歴史、実在ーー存在)についてのわれわれのあらゆる考察の再考が促される。これだけでもたいしたことではあるが、われわれはまだ前提にしか辿り着いていないーー

 それに、たぶん共同体には何一つ共同のものはないし、共同体はとりわけ共同のものではない。

 そして哲学の身振りは確かに創出し直すべきであるかのように裸形、空虚へと捧げられているが、創出し直すとはいえそれは何か別の意味作用を見出すためではなく、まさしく、もはや限界にのみ存在するためなのだ。それは意味の意味へと向かう身振り、我有化されざる未聞の外部性へと向かうのである。(わかっているのは、意味が現実的なものや実存を我有化できないということ、意味が現実的なもののもつ本質の、理にかなった自己構成ではないということにすぎない)。

 これは間違っても、「不在の真理」ということではない。

Ⅲ(〈共同での〉ということ)

 共同の意味の絆を断ち切ることのうちに、あるいはその切断を前にして、われわれが共同で存在しているという、共同体の残滓(そもそもどこか他所に先に、何かこの残滓の元のものがあったとすれば)がまだある。少なくとも言えるのは、われわれは互いに、ないしは一緒にいるということだ。それは事実上明白なことに思われる。

 「共に」「一緒に」「共同で」という表現は、ある外部性を含んでいる。

 露呈されているということは限界上にいるということだ。そこには内と外とが同時にあり、なおかつ内も外もない。

 露呈はいっさいの同一化に先立っている。

 特異性とは露呈そのものであり、露呈の局部的な現働性なのた(個人のものであろうと集団のものであろうと、同一性は、個々の特異性からなる総体を形成するのではなく、それ自体一つの特異性である)。特異性は、「自己」を構成する「自己」の分有(分割と分配)に則った、「自己にうちの[即自的な・それ自体としての]」存在であり、あらゆる「固有な」場(内奥性、同一性、個人性、名)の一般化された転位である。これら固有な場が固有なのは、それが、それら自身の限界上で限界をとおして限界として露呈されている限りでしかない。

 それはむしろ、「固有なもの」が本質をもたず、露呈されているのだということを意味している。

 存在することほど共同のものはない、これは実存からの明証性だ。

 ーー現前が、現前の限界としての、また現前の分有としての自己へと、到来する。

 資本、個人、生産、(「技術」による)再生産を「〈共同での〉」として我有化することから、〈共同での〉を(あたかも外部から行なわれる操作であるかのように)表象することにではなく、〈共同での〉を露呈することに、すなわち〈共同での〉へとおのれを露呈すること、それへとわれわれを露呈すること、われわれを「われわれ自身」へと露呈することに、背いているのだ。

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。