mitsuhiro yamagiwa

2022-09-24

ありのままの出来

テーマ:notebook

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「われわれ」のなかの「私」と「われわれ」としての「われわれ」とは、歴史的である。
なぜならわれわれは、自分たちの本質に対するのと同じく、存在それ自体の有限性であるこの出来に属しているからだ。

 すなわち他性は理念をもたず、単に出来するのみなのだーー〈集合存在〉として。

 有限な歴史とは、実存であると同時に共同体でもありながらけっしてそれ自身に現前しないような、そうした実存の現前化である。

 われわれの「われわれ」とは、この現前しないということから構成されており、現前なのではまったくなく、ありのままの出来なのである。

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 歴史は何ものにも生成しないーーもしそれが生成ではなく到来としての歴史ならば。

 記憶とは過去の(再)現前化である。言ってみれば生ける過去だ。歴史は記憶が止まるところで始まる。歴史は表象[再現前化]が止むところで始まる。

 出来が意味しているのは逆に、起源など現前せず、現前したためしがないということである。このことはハイデガーとともに、存在は存在しない、と述べることに帰着する。

 諸々の現在の間にはもはや時間などない。出来が行なうように時間のなかに到来するということ、あるいは出現するということは、時間それ自体から出て、おのれの自己の外に出る時間そのものなのである。

 定礎とは一つの限界を跡づけることにほかならず、その限界は時間を空間化し、ある新たな時間を開き、時間の内部で時間を開く。

 世界とは空間でも時間でもない。それは、われわれが一緒に実存する仕方である。

 Ereignisの論理とは、デリダが「差延」として表現した論理であり、自己の内で自己と差異化し自己を延期するものの論理である。

 すなわち、われわれは、われわれ自身に捧げられているのであり、これは、存在していながらなおかつ存在しないーー現前することなく実存し、あるいは捧げ物の現前のうちにしか存在しないーーわれわれの仕方なのである。

 機会とはすなわち、われわれに到来するある別の歴史をもつ機会であり、「われわれ」のある別の連接、未来のある別の言表行為をもつ機会である。

 「今」は現在を意味しないし、現在を表象しない。「今」は現在を現前化するのであり、あるいはそれを到来させるのである。

 出来の現在である「今」の現在は、けっして現前しない。

 「今」が、現前のこの欠如を現前化するが、この欠如はわれわれと歴史との到来でもある。「今」によって充溢した時間とは、開口部と異質性によって充溢している時間である。

 共同体とは実存へと参加することだが、何らかの共同の実体を分有することに行き着くわけではない。そうではなく、異質性としてのわれわれ自身へと、つまりわれわれ自身の出来へと、一緒に露呈されているということなのだ。これは、われわれが有限性に対してと同じく歴史にも参加しているに違いないということを意味している。

 有限な歴史とは歴史に対する果てしなきこの決定のことであるーーもしわれわれがまだなお「歴史」という語を、私が少なくとも今日試みてきた形で用いることができるとすればだが。時間においては、「今日」はすでに昨日である。だが、各々の「今日」はまた、時間を空間化し、いったい何においてそれがもはや時間ではなくわれわれの時代なのかを決定する、捧げ物でもあるのだ。

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。