mitsuhiro yamagiwa

2022-07-30

本当らしくない真理

テーマ:notebook

第 1 章 芸術と哲学

 私たちに要請されていることが芸術と哲学を結びつけることであるならば、この結びつきは形式的に二つのシェーマのもとで考えることができると思われる。

 一つ目は私は教育的シェーマと名づけよう。その命題とは、芸術は真理に対して無能である、あるいは、真理全体は芸術の外側にあるということだ。確かに、芸術は(ヒステリー症者のように)実質的な真理、直接的あるいは裸の真理という形をとって提示されるのだと、そして、この裸形性が芸術を真なるもの〔vrail〕の純粋な魅惑として見せるのだと認めることができるだろう。より正確に言うならば、芸術とは、根拠をもたず、論証されていない真理の、そこにあるという状態にくみ尽くされる真理の外観なのだ。

 いわゆる芸術という直接的な真理とは、間違った真理なのだと、真理の効果に固有の見せかけであるのだと暴く必要がある。これが、芸術についての、ただそれだけについての定義である。すなわち真理の見せかけの魅惑となること。

 芸術は厳しく監視されるが、外部によって規定されている真理に、見せかけや魅惑という一時的な力を与えるものとなりえるかもしれない。受け入れられる芸術とは、諸真理の哲学的監視のもとに置かれなければならない。芸術は感受性の教育であり、その意図を内在性に委ねることはできないだろう。芸術の規範は教育であるべきだ。そして教育の規範とは哲学である。

 芸術は、救済し解放しにやって来た悩める〈息子〉である。

 芸術は概念の主観的な不毛性から私たちを解放する。

 確かに芸術は真理ではないが、真理であろうと望むわけでもない。したがって芸術は無実である。アリストテレスは芸術を知識とは全く別のものに秩序づけるのであり、そうしてプラトン的な懐疑から芸術を解放するのである。

 芸術は治療の機能をもつのであり、認識に関わるもの、あるいは啓示的なものでは全くない。芸術は理論的なものではなく、(この言葉の最大限の意味における)倫理的なものに属するのである。

 芸術は治療の機能をもつのであり、認識に関わるもの、あるいは啓示的なものでは全くない。芸術は理論的なものではなく、(この言葉の最大限の意味における)倫理的なものに属するのである。

 最終的に、芸術と哲学のあいだの和解は、真理と本当らしさのあいだの境界をはずすことによって完全に成り立つ。

「真なるものはときには本当らしくないこともありえる」、この格言は境界を取り外していることを言明しているのであり、芸術の隣に哲学の諸権利の場を取っておくのだ。見て分かるように、本当らしさではない可能性を自らに与えるのは哲学なのである。哲学の古典主義的な定義とは、本当らしくない真理、なのである。

 おそらく芸術は無実なのであるが、それはあらゆる真理に対して無実だからなのだ。つまり想像的なもののなかに属しているからである。厳密に言えば、古典主義的シェーマにおいて芸術は思考たりえない。芸術の全体がその行為のなか、あるいは公共的操作のなかにある。

 哲学は、真なるものの外側にあるその宛先を教育的に監視するという様態のうちに芸術と結びつく。ロマン主義において、芸術は、〈観念〉の哲学的無限性が可能とする主体的な教育の全てを有限性のなかで実現する。古典主義において、芸術は欲望を捕らえ、その欲望の対象の見せかけを提示することによって、欲望の転移を教育する。哲学はここで美学としてして召喚されていない。つまり、哲学は「好まれること」の諸基準に関して自らの意見を伝えるのだ。

 異化効果は、劇場の教育的目標を哲学的に監視するための「幕物による」仕様である。見せかけはそれ自体から距離を置かなければならない。それは、隔たり自体において、真なるものの外在的な客観性が示されるためなのである。

 外側の真理を可能な限り主体化するという諸形式の中心に芸術を置くことで、彼はそれをなそうとしたのである。

 ブレヒトにとって、芸術が真理を生み出すことは全くない。だが芸術は、真なるものを前提として、その勇敢さの諸条件を解明するものである。芸術とは、監視のもとで臆病さを治療することなのである。一般的な臆病さではなく、真理を前にしての臆病さである。

 存在の退隠〔retrait〕は、詩と解釈の結合のなかにある思考のもとにやって来る。

 作品は、その形式的な華麗さのなかで、失われた対象の言い難い輝きを消し去るのだ。そうすることで作品は抵抗できないほどに、さこに身を晒す者の視線あるいは耳を引きつける。芸術作品は、一つの転移をつないでいく。なぜなら、芸術作品は、現実的なものによる象徴的なものの切り取りを、すなわち欲望の原因である対象aから象徴的なものの源泉である大文字の他者への外密を、特異で撚り合わせるような布置のなかで提示するからである。そうすることで作品の最終的な効果は想像的なものであり続けるのだ。

 真理は、作品の芸術的な効果の内部に実際 あるのだろうか?あるいは、芸術作品は外部にある真理の道具に過ぎないのだろうか?

 芸術作品が真理に対してもつ関係は単独的であると同時に内在的である、というようには決してならないのだ。

 つまり、芸術はそれ自体真理の手続きなのであると。あるいはさらに、芸術の哲学的な同一化は真理のカテゴリーに属する、とも言えるだろう。芸術は一つの思考であり、その作品とは現実的なものであるのだ(効果ではない)。

 芸術が教育する目的とは、芸術の実存以外の何ものでもない。この実存に出会うことだけが問題なのであり、つまり、思考を思考することなのである。

 真理とは無限の多数性なのだ。

 芸術作品は自らの目的に関する問いにそれ自体において答えてくるのであり、それは自らの有限性を示す説得力をもった手続きなのである。

 芸術は有限性の創造なのである。つまり、呈示という有限的な切断のなか、そしてその切断によって自らの組織を展示し、そして、その境界画定を浮かび上がらせるという、内在的に有限な多の創造なのである。

 ーー一般的に言えば、作品は出来事ではない。作品は芸術の事実であり、芸術的手続きがそれによって織り上げられているところのものである。

ーー作品は真理でもない。真理とは出来事が先導する芸術的手続きである。

 作品はしたがって局所的な審級なのであり、真理の微分点なのである。

 作品は、考察された芸術的手続きの主体である。あるいは作品はこの手続きに属する。あるいはさらに言えば、芸術作品は芸術的真理の点-主体なのである。

 作品とは、それが局所的に現働化する真理の上に、あるいはそれがその有限の断片であるところの真理の上に位置づけられた探求である。

 ーー諸作品は、芸術的布置の制約を選定するという出来事-後の次元において一つの真理を構成する。真理とは、結局出来事によって先導され(出来事とは一般的に諸作品の一つの集まりなのであり、諸作品という特異な多である)、真理の点-主体である諸作品の形式のもとで偶然にも展開される芸術的布置なのである。

 したがって、内在的で特異な真理としての芸術に関する思考の正当な単位は要するに、作品でも作者でもなく、(一般的に、以前の布置を廃れたものにしてしまう)出来事的な切断によって先導された芸術的布置なのである。この布置は、類生成的な多なのだが、固有名も有限の輪郭ももつことはなく、ただ一つの述語のもとで可能となるような全体化も行うことはない。我々はそれを汲み尽くすことはできず、ただ不完全に描写するしかない。

 布置は、探求という試練のなかで自らを思考するのであり、この探求は同時にこの布置を局所的に構成し、その未-来の姿を描き、時間の湾曲を遡及的に反映するのである。

 哲学は、いやむしろ、ある一つの哲学とは常に真理のカテゴリーを生成させることである。哲学はそれ自体どんな実質的な真理も生み出すことはない。

 芸術は諸真理を生み出し、哲学は、それらがあるという条件のもとで、これら諸真理を示さなけばならないという困難な務めを抱えている。

 諸真理を示すということは、本質的に、意見というものから真理を区別するということを意味する。したがって、今日における問いとは次のこと以外の何ものでもない。意見以外のものが存在するのだろうか?つまり、挑発を許してくれるのなら(あるいはそうでなくとも)、私たちの「民主主義」以外のものが存在するのだろうか?

『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。