mitsuhiro yamagiwa

2022-07-27

〈欠如〉と〈法〉

テーマ:notebook

第四章 ポストヒューマン人文学ーー理論を越える生

人文主義が外側へと爆発することで言説の境界線がずらされ、人間中心主義が内側に爆発することでカテゴリーの差異がずらされた結果、人文学の内部には善意だけでは修復でない内なる亀裂が生じている。

 すなわち、技術に媒介されたポスト人間中心主義は、人文学を刷新するという課題にあたり、遺伝子工学的ならびにテレコミュニケーション、ニューメディア、情報技術といったリソースに協力を求めることができるのである。ポストヒューマン的な主体性は、自律的で自己参照的なディシプリンの純粋性にかかわって、他律性と多面的な関係性を強調することにより、ヒューマニズム的な諸実践のアイデンティティを作り変えるのである。

 追求すべき道は、ノスタルジーではなく肯定なのであり、哲学的なメタ言説の理想化ではなく、つつましい実験を会した自己変容という、よりプラグマティックな課題である。

不協和の制度的パターン

 人文主義的な「人間」が衰退したのは、わたしたちが迎えている歴史的局面が変化にさらされているがらゆえのことである。

 嘆かわしくも学問分野の偏狭性という内向的な文化が残されており、ヨーロッパ中心主義や人間中心主義が考えられていない。人文学のこれら制度的な習慣のうちには、実際に認識論的な自己点検につながるものがほとんどないのである。この領域はしばしば、人文主義へと戻ろうとする引力のような免れがたい魅惑にあらがうことができない。

 人文学が必要としているのは、人文主義的な〈人間〉であれ人間中心主義的な〈人間〉であれ、もっばら人間なるものだけに関心を寄せるのではなく、大胆な発想力をもって地球規模の多くの知的課題に取り組むことなのである。

二一世紀の人文学

 気候変動の規模とその諸帰結は、表象を拒むほどに甚大なものである。人文学、とりわけ文化研究は、こうした社会的想像力の欠落を埋めあわせるのに最もふさわしいものであり、わたしたちが思考不可能なものを思考する助けとなる。

ポストヒューマン的批判理論

 過去の権威に盲従するかわりにわたしたちが手にするのは、複数の時間域の刹那的な共現前であり、それは、安定した諸々のアイデンティテイを活性化し脱領土化するとともに時間的な線形性を粉砕するような連続体のうちにある。このように時間を力動的に捉えるヴィジョンは、想像力という創造性に富んだ資源の助けを借りて、過去との再接続という課題に取り組むのである。

 非線形性はまた、人文学の諸々の学問分野における学術的実践に影響を及ぼしてもいる。つまり、線形性をよりリゾーム的な思考スタイルに置きかえる方法のことであり、この方法によって、複合的な連結や相互作用の線が可能となり、それらが必然的にテクストを、数多くのその「外部」へと接続するのである。

人文学の「適切」な主題は「人間」ではない

 本書を通じてわたしは、ポストヒューマン理論がプロセス存在論に依拠していることを論じてきた。プロセス存在論とは、主体性を理性的意識と同一視する伝統的な考えに異議を唱え、その両者を客観性と線形性に還元することに抵抗するものである。

 共現前、つまり、ともに世界内に存在しているという同時性が、人間の他者と非-人間の他者の双方と相互に作用するにあたっての倫理を規定している。このような見解、つまり、わたしたちを連結する関係の絆を非総合的に捉える横断的な理解から、集合的に配分されたひとつの意識がたち現れる。こうして関係性が、そして複雑性という考えかたが、ポストヒューマン的な主体をめぐる倫理や、その認識的な構造と戦略の中心に位置づけられるのである。

 思考することは、諸々の関係の様式へと入り込む能力の概念的な対応物である。それは、影響を及ぼすとともに影響を被り、そうすることで質的な転換と創造的な緊張関係を持続させる能力のことであり、芸術の特質でもある。だからこそ、批判理論が主要な役割を果たすのである。

 すなわち倫理学は、今日の時代のジレンマに見合った新しいメタ言説や規範的な禁止命令を発することを期待されており、多くの場合、みずからその特権をもつと主張するのである。しかしながら、このメタ言説的な権利欲求は実体をともなわない。

 ポストヒューマン的批判理論が訴えるのは、人間の他者と非-人間の他者との関係にもとづく、ポスト-アイデンティティ主義の非単一的かつ横断的な主体性なのである。

 わたしの論点は、人文学が、ポストヒューマン的状況によって与えられた多様な機会に応じなければならないというものである。人文学は、人間なるものに伝統的ないし制度的に割り当てられてきたものやその人文主義的な派生物から脱して、みずからの探究の対象を設定することができる。

グローバルな「マルチ」ヴァーシティ

 知識は客観的であると想定される。なぜなら、知識が依拠するのは、独立して実在する現実を表象したものであり、主観主義的な解釈ではないからだ。合理性が支配力をもつのであって、形式的な理性ーー実践的な理性とは対置されるーーは、それ自体の内的論理を備えており、その論理が証拠や妥当性についての諸々の基準を提供するとされる。その結果、知性の基準は譲ることができず、卓越についての客観的な価値基準に基礎づけられることになるのである。

 ローティの主張によると、より賞賛されるべき「科学の客観性」は、能動的な間主観性と社会的な相互作用に依拠する。

 わたしはむしろ、グローバルに考えローカルに振る舞うという経験的命法から出発することにしたい。

 今日の歴史的条件と直面することとは、思考の活動を外側へ、現実世界へと向け、そうすることで、わたしたちが立つ場所を定義する諸条件への説明責任を引き受けようとすることである。認識と倫理の歩みが手を取りあい、第三世紀の複雑に入り組んだ地平へと進んでいく。もはやもとに戻ることはできない以上、そうした難局に際してなすべきことをなすための概念的な創造性と知的な勇敢さがわたしたちに必要なのだ。

 ローカルな関心事とグローバルな難題に応答する現代の「マルチ・ヴァーシティ」は、朗読市場の競争、グローバルな文化、企業世界の要求に正面から向きあい、その一方で、学問的な卓越や市民の啓蒙といった世紀末の使命を追求する。

 わたしたち自身やわたしたちの価値体系について別様に思考することを学ぶためには、非単一的で関係を織りなす主体の位置から始める必要がある。

 未来とはつまるところ、世帯間の連帯や後世に対する責任にほかならないが、それはわたしたちが共有する夢、ないし合意のうえでの幻覚である。これはウィリアム・ギブソンによるサイバースペースの定義である。

結論

 本書の目的にとってより重要なのは、ポストヒューマン的窮状ゆえに、人間なるものの地位についてのいっそうの再考と熟慮が求められているということである。さらには、それにしたがって主体性を鋳造しなおすことが重要であり、わたしたちの複雑な時代にふさわしい倫理的な関係、規範、価値のありかたを発明することが必要になっているということである。

 電子的に結びつけられた汎人間性は、不寛容やさらには排外主義的暴力を生み出している。

 わたしは当初からずっと、批判理論の重要性を強調してきた。それは、批判と創造性を組み合わせ、新たに根本的なしかたで現在というものと向きあうことをみずからに課すという意味での批判理論である。わたしの主たる関心は、どのようにしてわたしたちが生きている状況にふさわしい理論的および想像的なの表象を見つけ出すか、そして、どのようにしてポストヒューマン的主体性というオルタナティヴなありかたでともに実験していくか、というものである。

ポストヒューマンな主体性

 ポストヒューマン的主体は、ポストモダンではない。なぜならポストヒューマン的主体はいかなる反基礎づけ主義的前提にも依拠していないからである。また、ポストヒューマン的主体はポスト構造主義的でもない。なぜならこの主体は言語的転回や脱構築のそのほかの諸形式の内部で機能するわけではないからである。ポストヒューマン的主体は、意味作用に不可避的に備わる権力によって枠づけられてもいないので、結果として、あるシステムの内部でその存在に相応しい表象を追い求めているとして非難されることはない。そもそもひとつのシステムは、その構成上、対象にとって正当な認識を与えることができないのである。言語的シニフィアンは、〈欠如〉と〈法〉にもとづいているので、せいぜい計略をはりめぐらしエンパワーメントを抑え込むことぐらいしかできないのだ。言語的シニフィアンの主権権力は、否定的な情念によって築かれている。

 一元論的な政治は、主体性の核心部分に権力作用を分配する差異のメカニズムを置くのである。多数の補足のメカニズムは、多数の抵抗のありかたを生み出してもいる。

 運動と速度、堆積の線と逃走の線が、非単一的ポストヒューマン的主体の形成に影響する主だった要素なのだ。

 ノマド的主体は、複雑性理論の一部門であり、徹底した変容の倫理をたえず強調する。
これは、歴史的偶発性と文化的コードが主体形成において果たす役割を否定するものではなく、まさにこうした諸要因に対して、その構造と構成が被りつつある変化に見合うよう、重大なアップデートを施すことである。

 わたしたちは「現在にふさわしい」ものでなければならず、つまりは現代文化の一部として、この特殊な世界の主体性を身体化し状況に埋め込まなければならない。ポストヒューマン的思考は、現実的なものからの逃走とは程遠く、現代的な主体をそれ自身の歴史性の諸条件のうちに書き込むのである。

 言うべきことは何もなく、すべてはなすべきことなのである。生命は、単に生命であるというだけで、エネルギーの諸々の流れを現勢化させることによって自らを表出するものなのだ。

ポストヒューマンの倫理

 わたしたちの集合的な歴史におけるいまという特定の時点において、わたしたちは、自らの肉体をともなう自己、精神、身体がひとつのものとして実際に何をなしうるのかまったく分かっていない。それを明らかにするために、わたしたちは諸々の強度で実験する倫理を受け入れる必要がある。

 ポストヒューマンになるということは、人間たちに無関心になるとか、脱人間化されるとかいったことではない。それとは逆に、ポストヒューマンになることは、むしろ倫理的な諸価値を、領土的ないし環境的な相互連結を含む広い意味での共同体の福利へと、新たに結びつけなおすことを含意するのである。こうしたプロセス志向の主体観は、道徳的及び認知的な普遍主義を拒否するものの、ある普遍主義的な射程を可能にしている。

 この主体観は、集合性と関係性という強い感覚にもとづいて、部分的だが地に足のついた説明責任を表しており、それは共同体と帰属性についての権利要求を特異な諸主体にもとづいて更新することに帰結する。

アフォーマティヴな政治

 ポストヒューマン的思考は、単一の自己というヴィジョンと主体の形成過程の目的論的な解釈とを超えたところで現代の諸主体を支持し、変化しつづける世界とシンクロしポジティヴな差異を作り出そうとするその営みを支えることができるのだ。

 ポストヒューマン理論にとって、主体とは横断的な存在物であり、非-人間的な(動物、植物、ウィルスの)諸関係のネットワークのなかに完全に埋没し、そこに内在している。

 理性的な意識は、まったくもって垂直に超越する行為ではなく、むしろ、徹底した内在性という基底的な行為において鋳造しなおされ下向きに押し込められるのである。それは自己を世界へと押し広げる行為であり、世界を内に包み込む行為でもある。

ポストヒューマン的な、あまりにも人間的な

 すなわち、わたしたちの集合的および個人的な強度は、人間的な、あまりにも人間的な諸々の資源と限界によって枠づけられており、ポストヒューマンなるものへのわたしの関心は、ある意味でこのことにわたしが感じているフラストレーションを如実に反映している、と。本書でわたしが書こうと努めてきたことには、いらだちとともに期待が含まれている。

 社会と科学を集合的に進展させつづけた結果、わたしたちちの眼前でまさに開けつつある諸々の潜勢的な可能性に対する最良の対処法とは、具体的で現勢化された実践なのである。人間の身体化〔=身体をもつこと〕と主体性は、目下のところ深刻な変異を遂げつつある。

 わたしたちは自分たちのポストヒューマン的自己に追いつくことができるようになるのだろうか、それともわたしたちが生きる環境との関係において理論的および想像的な時差ボケ状態を引きずりつづけるのだろうか。

『ポストヒューマン | 新しい文学に向けて 』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監修、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。