mitsuhiro yamagiwa

2022-08-01

多の真理?

テーマ:notebook

第 2 章 詩とは何か、それについて哲学は何を思考するのか?

集合的主観性は、それが「詩的なものにされている」限り、思考から免算されてもいるということであり、思考とは異質のままなのである。

詩が禁ずるのは、推論的思考、ディアノイアなのである。プラトンは言う、詩は、「それを聞く者たちの論証性の破壊である」と。ディアノイアとは、貫いて行く思考のことであり、連関させ、演繹する思考である。詩のほうはと言えば、これは肯定と悦楽であり、貫いて行くことはせず、閾の上にとどまる。詩は、規則的な通貨ではなく、捧げもの、法則のない提示なのである。

 プラトンはこうも言うだろう。詩に対抗するために真に頼れるものとして、「尺度、数、重さ」があると。魂の反詩的な部分とは、「計算するロゴスの労苦」であると。  

 ディアノイア、連関させ横切る思考、法則に従うロゴスである思考、それは一つの範列(パラディグム)をもつ。すなわち数学である。

 一方に、最も明白なことであるが、詩はイメージに、すなわち経験の直接的な単独性に従うままであるということがある。それに対して数式素の方は純粋な観念のなかで始まり、そして演繹しか信用しない。したがって、詩は、感覚的な経験と不純なつながりをもち、そのつながりは言語を感覚の限界に晒してしまっている。この観点からすると、詩の思考が本当に存在するのか、あるいは詩は思考するのか、常に疑わしいのだ。
 だが、プラトンにとって、疑わしい思考とは、つまり非-思考から区別できない思考とは何なのか?それは詭弁術である。

 詩は思考のできない思考なのだと言えるだろう。かたや数学は直ちに思考として書き込まれる思考であり、まさしく思考可能なものである限り存在する思考なのである。

 したがって、哲学にとって詩とは、思考できない思考、思考することさえできない思考であると確かに提起することもできるだろう。だが、正確には、哲学は思考を思考し、思考を思考の思考として識別すること以外の賭け金をもたないと言うこともできよう。

 至高の原理、〈一なるもの〉あるいは〈善〉が問題となるとき、私たちは「実体を超えたところ」にいるのであり、したがって〈観念〉の切り抜きのなかで展示されるあらゆる外側にいるということに、プラトンは合意しなければならない。

 数学は、存在としてある、存在の原初の不整合性としての、純粋な多の真理である。

 詩は、言語の限界へと至った現前としての、多の真理である。

 詩とは、消滅を背景とした現前に関する思考として、直接的な行動であると同時に、一つの真理の局所的なこの上ない形象として、思考のプログラム、潜勢力をもつ予見でもあるのであって、内在的であると同時に、創造された「他の」言語を出来させることによって言語を追い詰めることでもあるのだ。

 しかし、どんな真理も、潜勢力であると同時に無力でもある。というのも、真理がそれについて管轄権をもつところのものは、全体性ではありえないからだ。

 真理は「すべて」言われることはない、半分だけ言われるのだと。ジャック・ラカン

 一つの真理が真理であろうとも、その真理は、真理を「全体的に」囲むのだと、あるいは真理の全面的な顕示だと主張することはできないだろう。詩による啓示の潜勢力は、人の謎の周りを巡っているのであり、したがって、その謎に焦点を合わせるということは真なるものの潜勢力を、無力という現実的なものの全体にしてしまうということなのだ。

 より一般的に言えば、一つの真理は、真理が探求するものの先端において、常に限界に出くわす。そこで証されるのは、真理とは単独のこの真理のことなのであり、〈全体〉の自己意識ではないということだ。

 真理のあらゆる体制は、現実的なものにおいて、それ固有のものである名づけえないものの上に成り立っているのだ。

 では、整合性のある理論とは何なのだろうか?それは、理論のなかに不可能な言表が存在するという理論である。一つの理論は整合性をもつ。しかしそれは、理論のなかに書き込むことのできない、あるいは理論が真実であると認めることのない、この理論の言語による「正当な」言表が少なくとも一つ存在するならば、という話なのである。

 もし今、私たちが詩の方を向くなら、詩の効果を性格づけるのは言語そのものがもつ潜勢力の顕示であるのがわかる。どんな詩でも言語のなかにもたらすのは、現われるものの消滅を永遠に固定する力、あるいは、〈観念〉の消滅を詩的にとどめておくことによって、〈観念〉としての現前そのものを生み出す力である。

 しかしながら、この言語の力というものは、まさしく詩が名づけることのできないものなのだ。

 言語がもつ無限は、詩がもつ潜勢力の効果に内在する無力なのである。

 詩は、意志によらずに言語を貫く力のようなものなのである。

 いずれにせよ哲学は、詩と数式素の二重の条件のもとに自らを位置づけることになる。これらのもつ真実性の潜勢力の側と同時に、これらの無力、名づけえないものの側に。

 一つの解釈がどんなに見事なものであっても、哲学がたどり着く意味は、意味への能力を根拠づけることは決してないということを。

『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。