mitsuhiro yamagiwa

Ⅱ 恋人たちの共同体

六八年五月

 語るということが、語られるものにまさっていたのだ。詩が日常のものとなっていた。抑制なしに現われるという意味での「自発的」なコミュケーションは、闘争や討議、意見の対立があるにもかかわらず、透明で内在的な、コミュケーションそれ自身とのコミュケーションなのであり、そこでは計算をこととする知性よりも、ほとんど純粋といっていい(ともかく軽蔑も、高尚さも低劣さもない)沸き立つ情熱が表明されていたのであるーーだからこそ権威は覆され、あるいはほとんど無視され、いかなるイデオロギーもそれを取り込んだり自分のものだと主張したりすることのできない、未だ嘗て生きられたことのなかった共産主義の一形態がここに出現したのだと、人びとは感じとることができたのだ。

民衆の現前

 自分を限定しないために何もしないことを受け容れる無限の力としてある「民衆」の現前。

 彼らはそこにおり、もはやそこにはいない。民衆は彼らを固定化するような諸もろの構造を無視するのだ。現前と不在とは、混合されるものではないとしても少なくとも実質的に入れ替わり合う。だからこそ、民衆を認めえない権力の保持者たちにとって民衆はおそるべきものなのだ。民衆を把握することはできない。民衆とは社会的事象の解体であるとともに、それらの事象を法が囲い込むことのできない至高性〔主権性〕ーー至高性とは、あくまで法の基礎でありながら法を締め出すものであるーーにおいて社会的事象を再創出しようとする頑なな執着ともいうべきものでもある。

倫理と愛

 理解という作用が要請する同質性ーー自同者の宣明ーーの中に異質なものが、それとあらゆる関係が関係なしを意味するような絶対的に他なるものが、立ち現れなければならない、意志とおそらくは欲望さえもが、法をかすめる突然の(時間の外の)出会いの中で、越えがたいものを越えるというその不可能性〔ありえないこと〕が出現しなければならない、ということである。

 愛とは差異だけを糧として成長するものなのだ。通常の人間のグループ、すなわちおのれの存在を明確に表明する、すぐれて開化的でもあるグループは、多かれは少なかれ「同質的なもの、反復的なもの、連続的なものを、異質なもの、新奇なもの、亀裂の受容といったものより重く見る傾向がある」。

 女は、打ち明けえないもの、認めようもないものと部分的に結ばれているのである。

トリスタンとイゾルデ

 欲望するとは、自分のもっていないものを、それが望んでもいない誰かに与えることだと言ったのは(たぶん引用は正確ではない)ラカンではなかっただろうか。

 情熱というものが可能性をすり抜けるものであり、それに捉えられた人々については、彼ら自身の諸もろの権能や彼らの決定、さらにはその「欲望」すらすり抜けてしまい、そのことにおいてまさしく外異性そのものであって、彼らのなしうることも彼らの望むことも意に介さず、彼らが自分自身に疎遠なものとなってしまう外異なもののうちに、また彼らが互いに同じように疎遠なものとなってしまうある親密さのうちに、彼らを惹き寄せるものだということを予感させる。ではそれなら、あたかも彼らのうちに、彼ら二人の間に、死が横たわっているかのように、彼らは永遠に隔てられているというのだろうか。いや、隔てられてもいなければ引き裂かれてもいない。ただ互いに近付きえぬものとして、近づきえぬものの中で、無限の関係の下にあるのである。

 存在論ーーつねに他者を自同者に還元してしまう存在論ーーが倫理に歩を譲り、自己が他者を認知し他者のうちにおのれを認知するということに満足するのではなく、自己が他者によって疑問に付されていると感じ、限定されえず涸れることなくおのれを超えてあふれ出る責任によってしか、それに答えることができないというほどまでに疑問に付されていると感じるような、そうしたある先行する関係がはっきりと宣明されうるのでなかったら、倫理の可能性はありえない。

決死の飛躍

 「私」は他人に対しては自由ではないが、私は私自身から連れ出し、ついには私を私自身から締め出そうとする要請を私はいつでも自由に拒むことができる。

 情熱は宿命的に、それも自分の為に反してでもあるかのように、私たちに他者に対する責任を追わせる。他者は私たちの到達しうる可能性の範囲外にあるように思われるがゆえにいっそう私たちを惹きつける、それほどまでに、私たちにとって重要ないっさいのものの彼方にあるのである。

 エクリチュールに死が刻み込まれるとき、その死の漂流物である作品とは、営み/作品をなすことのあらかじめの断念にほかならず、ただあらゆる人に対して、そして各人に対して、従って誰に対してでもなく、永遠に来たるべき無為のことばが響きわたるそんな空間を指し示すばかりである。

明かしえぬ共同体

 死は、共同体の運命に書きこまれたつねに不確かな終末を、一瞬はぐらかすようにして永遠に確立するのである。

 明かしえぬ共同体、これははたして、この共同体がそれ自身を明らかにすることはないということを意味しているのか、それともこの共同体には、その実態を明らかにするいかなる告発もありえないということを意味しているのだろうかーー少なくとも、ここでこれまで共同体の在り方が語られるたびに、把握されたのはただ、欠如によってそれを存在させるものばかりだと感じられるからには。それならば口を閉すべきたったということなのか。

 あまりに名高く繰り返して語られてきたヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という教えは、そう言及した彼自身が自分に沈黙を課すことができなかった以上、決定的に口を閉ざすためにこそ語る必要があるのだということを指示しているというべきだろう。

 現在、それは未知の自由の空間を開きながら、私たちが営みと呼ぶものと無為と呼ぶものとの間の、つねに脅かされるつねに期待されている新たな関係についての責任を、私たちに担わせるものである。

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ/著、西谷修/訳より抜粋し流用。