mitsuhiro yamagiwa

2022-09-29

欠如の過剰

テーマ:notebook

I 否定的共同体

 共産主義、共同体、といった用語は、歴史が、そして歴史の壮大な誤算が、破産と言うはるかに越えたある災厄を背景にしてそれらを私たちに認識させる限りで、まさしく一定の意味を帯びた用語である。辱しめられた、あるいは裏切られた概念というものは存在しない。あるのはただ、それ自体の-従ってそれ自体に背く放棄(単なる否定ではない)なしには「しかるべき」ものとはならない概念であり、そうしたものこそ、私たちが安んじて拒否したり忌避したりしてすますことのできないものなのだ。

 共産主義が平等をその基盤とし、あらゆる人間の欲求がすべて平等に満たされる(それ自体は最小限の要請である)ことのない限り共同社会はありえないとするものであるならば、共産主義が想定しているのは完全無欠な社会ではなく透明な人類という原理、つまり人類が本質的にはおのれ自身によって産出されるその意味において「内在的」(ジャン=リュック・ナンシーは言う)であるーー人間の人間に対する内在ーーという原理である。このことはまた、人間を絶対的に内在的な存在とみなすことを意味している。なぜなら、人間とは徹頭徹尾営みであり、おのれの営みの所産であり、最終的には全体の所産としてあるからであり、またそうなるべきものだからである。

 しかしかりに人間の人間に対する関係が、同じ者同士の関係ではなくなり、還元しえないものとしての他者、彼が注視するときには対等な者としてありながら彼とはつねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そこを領するのはまったく別の種類の関係であり、この関係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのない別の社会形態を必然化することになる。あるいは人は、ある共同体をめぐる思考の中で問われているのかを自問し、またそうした思考はそれが存在したにせよしなかったにせよ、必ずしも最終的に共同体の不在を結論づけはしないのではないかと自問しながら、このまったく別の社会形態をあえて共同体と呼ぶことがあるかもしれない。

 あらゆる反復は、思考の道筋を単純化することでその力を弱めもするだろうし、テクストの引用はその道筋に手を加え、さらにそれを逆転さえしかねないからである。

 すなわちバタイユはつねに彼自身であり続けながら、絶えず自分とは別の者であろうとし、また歴史のもたらす諸変化や、反復されることを望まない諸もろの体験を汲み尽くすに応じて、容易に統合するすべのないさまざまな要請を絶えず展開してきたが、彼にそれを強いた変貌の必然性、あるいは自身に対する不忠実というものを私たちもまたわが身に引きうけるのでなかったら、このような思考に忠実であることはできないだろうということである。

不完全性の原理

 「おのおのの存在者の根底には、不充足の原理がある」

 不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付すことから生じる。そしてこの付疑が果たされるために他者が、あるいはもうひとりの存在者が必要なのである。

 存在者が求めているのは承認されることではなく、異議提起されることである。彼は現存すべく他者へと向い、他者によって異議にさらされ、ときには否認される。彼に自分自身であることの不可能性、イプセ〔自己性〕あるいはそう言ってよければ、分断された個人としての在り方に固執し続けることの不可能性を意識させるのは〔異議にさらされ否認をうける〕この剥奪状態なのだが(そこに存在者の意識の起源がある)、彼が他者に向うのはまさしくそうした不可能性を意識するためであり、この剥脱状態の中ではじめて彼は存在しはじめるのである。こうしておそらく彼は、外に- 置かれるというかたちで現存し(ex-ister)、自分をつねにとりあえずの外部性として、あるいはそこかしこに破綻をかきたした現存として体験しながら、ただ、荒あらしい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる。

合一?

 不充足とは、充足のモデルをもとにして結論されるものではない。不充足は、それに終わりをもたらすものを求めているのではなく、むしろ満たされるにつれてますます募ってゆく欠如の過剰をそこに求めている。おそらくこの不充足性が異議提起を呼び求めるのである。その異議提起は私ひとりに由来するものだとしても、それはつねにひとりの他者(あるいは他者一般)に対して自分をさらけ出すことである。他者だけが、彼の位置そのものからして、私をゆさぶることができるのだ。もし人間の現存が、自己を不断に根底から疑問に付すものだとすれば、おのれの力を越えるこの可能性を、彼は自分ひとりで支えることができない。そうでなければ、疑問一般に対するひとつの疑問が欠けることになるだろう〔自己批判というまでもなく、他者からの批判を拒否することにほかならず、不充足である権利をおのれに留保しつつ自足するひとつの方法であり、自己の前でみずから卑下することではあるが、自己はそのことによって逆に高められる)。不充足の原理によって支配されている者は、また過剰へと運命づけられている。人間とは、過剰なものを地平に生きる不充足な存在である。

 過剰とは過度の充溢、あり余ることを意味するものではない。過剰な欠如と欠如ゆえの過剰とが、人間の不充足の決して満たされることのない要請なのである。

他人の死

 死に瀬して決定的に遠ざかってゆこうとする他人の間近に現前し続けること、他人の死を、自分に関わりのある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって共同体を開示しつつ、その開口部に向けて私を開くことのできる唯一の別離なのである。

共同体と無為

 すなわち共同体は、それ自身の内在性が成立せず、主体としてそこに所属することはできないというそのような不可能性を引き受けている。共同体は、いわば共同体の不可能性を担い、それを刻みつけているのである。

 それは、有限性と、有限な存在を基礎づけている見返りのない過剰との提示なのである……。〔ナンシーの〕考察のこの時点には、二つの本質的な特徴がある。(一)共同体は限定された社会の一形態でもなければ、合一による融合を目ざすものでもない、(ニ)社会的な小単位と違って、共同体は何らかのか営みをなすことをおのれに禁じており、いかなる生産的価値をも目的としていない。では、それはいったい何の役に立つのか。

共同体とエクリチュール

 共同体は至高性の場ではない。それはおのれを露呈しながら他を露呈させるものではない。共同体は、それを締め出す存在の外部を内に含んでいる。

供犠と放棄 

 アセファルに関わること、それは、おのれを投げ出し、おのれを与えること、すなわち、無限の放棄に見返りもなくおのれを与えること、なのである。それが、共同体を解体しながら基礎づける供儀である。

 不在は、限定されたかたちで共同体にびったりと身を寄せており、その唯一のーー言うまでもなく捉えようのないーー秘密となっている。共同体の不在は共同体の挫折ではなく、極限的な瞬間、あるいはそれを必然的な消滅へとさらす試練なのである。アセファルは、共有することも私有することもできず、後の放棄のために留保しておくこともできないものについての共同の体験だったのだ。

内的体験

 つまり体験が成就されるのは、それが不完全性の中には執拗にと留まりながら、分かち合われ、その分かち合いの中でみずから限界を露呈し、その限界の中におのれをさらすときである。

 孤立した存在者とは個人であり、個人とは抽象にすぎず、通常のリベラリズムの脆弱な概念が思い描いているような存在にすぎないのだ。

秘密の分かち合い

 有限性の支配しているところに終りはないのである。

文学的共同体

 自分の生が自分にとって意味あることを願うなら、私の生は他人にとって意味をもつものでなければならない」。あるいはまた、「私はかたときも、自分自身を極端へと駆り立てずにはいられない。また私は、自分自身と、他人たちのうちで私が通い合いたいと望んでいる人々とを区別することができない」。ここにはある混同が含まれている。つまり一方で、体験がそのようなもの(極端に向う)たりうるのは、それがコミュケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質において外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっているーーそしてこの二つは同時的なものでもある。

 誰に宛てられたのでもない本の無名性はそこに由来する。そしてそれは未知の者との関係性によって、ジュルジュ・バタイユが「否定的共同体、すなわち共同体をもたない人びとの共同体」と呼ぶことになる(少なくとも一度)ものをうち立てるのである。

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ/著、西谷修/訳より抜粋し流用。