mitsuhiro yamagiwa

2022-10-03

行為ならざる行為

テーマ:notebook

訳注

Ⅰ 否定的共同体

 「書くとは、ことばを私自身に結びつけるつながりを断ち切ることだ(…)。またそれは言語をこの世の流れから引き出すこと、言語をひとつの権能とするものから言語を解放することである」。

 作家は作品を書くことしかできず、「決して作品の前にはいない、また作品が存在するところにいながらそれを知らない。もっと正確にいえば知らぬというそのことを知らないのだ」とブランショは書いている。

 あらゆる言語的なコミュケーションが、それと知らず実行するとともに、無限にそれから外れてゆきもする盲目の迂回であるようなものである。

Ⅱ 恋人たちの共同体

 つまり、われわれが共有したのは獲得された思想であるというよりむしろ不信であり、われわれが不信を抱きながら思想をもつその不信なのだ。われわれの拒否は、個々人の特殊性による拒否の分裂を拒否することをも含んでいる。

 ブランショにとって〈無為〉は単に消極的に何もしないことではなく、しないということを通して〈営み〉を解体する積極的行為である、つまり行為ならざる行為であったように、事実orgiaもおそらくorganonと同じくergonと同根である、とされている。

ブランショと共同体ーーあとがきに代えて

2

 共同体の問題は、西欧の個の集合としての近代社会を積極的に支えるイデオロギーは、この社会がかつて人間の従属していた共同体を解体し、それによって解放された自己を確立した自由な個人の結合として成立した、というものだが、このイデオロギーは「共同体の喪失」という負のファンタスムをつねに背後に生み出している。つまり、このような社会は個の絶体分離を基礎にしているが、人間が問われるかぎりつねにひとつの世界が問われているのであり、個とは抽象にすぎず、個の閉域に囚われた者は少なくとも「共同体への傾斜」を含んでいるのである。

〈共同体〉は、有為の人間、生産する主体としての人間が構成する社会の外、その社会の解体のうちに限界として現出する。

 人間が有限な存在であるとしたら、共同体はその有限性を贖うものとしてあるのではなく、むしろひとをおのれ自身の有限性にさらすものとしてあるのである。共同体が個別性の廃棄を要請するとしても、個別性が廃棄されたとき、すべては全体のうちに呑みこまれた非差異化されるのではなく、そのときにこそ、諸もろの差異が生々しく露呈し、たがいをさらし合うのである。

 ヘーゲルが主体の死について考えたことをナンシーは他者の死の中で考える。他者の死の中で露わになるたがいの有限性、有限なものとしての相互に特異なものとしての〈分割〉、その分かち合いがあらゆる超越を排した〈コミュニケーション〉であり〈共同体〉なのである。

 バタイユは、〈内的体験〉が〈共同体〉なしにはありえないという。

 体験の中で「主体と客体とは効力を停止する」。しかし、そこに生ずるのはすべてを呑み込む流し去る混沌ではない。「このとき主体は非知、客体は未知となる」。

 もはや知の関係、主-客の関係に限定されず感性的体験と区別されないこの接触、それが〈コミュケーション〉であり、〈体験〉を支える〈共同体〉のもはや限定し得ない実質であるが、その〈共同体〉とは、未完了の存在が裸でその有効性をさらし合う純粋な差異の接触としての〈共同体〉にほかならない。

 (共同体〉とはまさに〈体験〉のさなかにあって〈体験〉に意味ならざる意味を与え、それを可能にするものなのである。

3

 戦後、大戦明けの祭りのような雰囲気の中で、多くの人々が再びさまざまなグループを形成した(実存主義、共産主義、ペルソナリズム等々)が、おそらくどんなグループ内の一致よりもはるかにたがいの思考を親しくは響き合わせたブランショとバタイユは決してグループを組むことはなかった。それは、彼らの〈共同性〉が一定の思想、傾向を共有する個的な存在間の連帯ではなく、むしろそのような共有を断念したときに現われる直かの接触、あるいは相互の限界をあらわにする〈分割〉以外に何ものをも共有しない〈共同性〉だったからである。彼らの間にはある原則を基にした擬制の共同体はない。ただ、「終わりなき対話」があるだけである。

4

 「民衆の現前」は把握することのできない「社会的事象の解体」なのである。そこには、共有される幻想も、ひとを内在へと包みこむ共同性もなく、むしろそれを排除する関係だけが、〈コミュケーション〉として生きられる。その〈コミュケーション〉とは、言葉を介しての通い合いでもなければ、思想の相互理解でも心情の同調でもなく、言われたことよりも言うという行為そのもののうちに表明される何ものか、おのれを投げ出すことの中でもわれ知らず果たされるいっさいの幻想を離脱した触れ合いであり、だからこそこの共同体は〈共同体をもたない人びとの共同体〉、そうして、それを生きた人びとがそれについて語る権能すらもちえない〈明かしえぬ共同体〉と呼ばれるのである。

5

 たしかに、共産主義が、資本主義社会の中で商品化された分断疎外された人間に、私有財産の廃止と生産手段の共有化によって新たな共同社会をとり戻させる試みだとすれば、まさしく共産主義は共同体の問題を核心に抱えているということができる(確かに初期のマルクスは人間の共同性の問題として共産主義を語っていた)。

 共産主義と共同体との隔たりが見えなくしていたものとは、何ものかの共有、そうして共有する主体を絶体的個人としてあるいは国家として疎外する共有ではなく、むしろ共有すべき何ものももたないこの直かの〈コミュケーション〉なのである。

 ブランショはディオニス・マスコロのことばを引用して「共産主義とは、コミュケーションの物質的追求の過程である」と述べているが、ことばが、何ごとかの伝達の手段ではなく〈贈与〉となるときあらわになる〈コミュケーション〉、物の流通が価値を生む手段ではなく、〈交通〉として誰にも帰属せぬ出来事となるときそこに実現されている〈コミュケーション〉、そしてそこにすでにある共同体、ブランショの共産主義はそうしたものに向けられているのである。

 〈共同体〉はそこに起こっている、しかし実体としてあるわけではない。

6

 なぜなら社会的存在たることは、全体化の一歩であり、権力の関係の中にみずからを権力として構成することであるが、ブランショの歩みはまさしくその社会的存在の解体に向けられてきたのである。

文庫版訳者あとがき

 ただ、「共同的存在」というのは、共に何かをするとか、共通の目的をもつとかいうことを必ずしも意味してはいない。それが意味するのはほかでもない、「存在」が単独では完結しないということである。ひとが「いる(存在する)ということのうちには、すでに「…と共に」が暗黙の前提として含まれている。

 だれもが新聞を読み、ラジオを聴いて同じ情報をもち、同じく交通機関の乗客となり、大量生産のものを買い、同じ好みをもち、ひとと違うことを恐れて互いに均質化し、雑踏にまぎれるだれでもない「ひと」となって、「公共性」のうちに埋没することで安心する。ところがそれはハイデガーに言わせれば、「存在する」ことの「本来性」を欠いた「頽落」の様態である。つまりそこでは、あらゆる生の体験がだれのものでもない非人称的なメディアに媒介され、出来事は他人事として日常的な「お喋り」のなかで消費され、だれもが「本来的」な自己の生から遠ざけられているということだ。

 だから「共同体」を求める企ては、つねに裏切られているというかたちでしか実現されない。

 一九九七年五月 

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ/著、西谷修/訳より抜粋し流用。