mitsuhiro yamagiwa

2023-09-03

形式

テーマ:notebook

難問

 遂語的な意思疎通は他者の主観的な視点を享受できるときに生じる。人々がイヌの「話」を理解できる、あるいは、精霊は人々の祈りを理解できるといった事実が証拠となるように、「より高位の」存在は、より低位のものに対して容易にそれをなすことができる。

 比喩的な人間の夢において、人々は自らの知覚と動物の主の知覚とのあいだのズレを認識する。

種=横断的ピジン

 イヌは呼びかけるときに(なんじ〉と呼ばれるときに〈なんじ〉と呼ばれることが可能になるには、たまに、縛りつけられなければならにないからである。「あらゆる〈それ〉は他者たちによって境界づけられている」。他者とともに生きることに本来的に備わる、〈それ〉と〈なんじ〉のあいだのこの緊張をうまくやり抜くことが、不断の課題である。なぜなら、アブィラの人々が奮闘しているのは、その小宇宙に住まう多様なたぐいの他なる存在に対する「関係において」、ひとつの立場をとることだからである

 いかに形式が生命の全体にいきわたっているのか。適切な制約が与えられるときには、いかに形式が根本的に異なる領域を交差するようにして労力を伴わずに増え広がるのか。そして、いかに形式が特定の社会的な効能を獲得するようになるのか。

第五章 形式の労なき効力

 動物は何らかの仕方で世界を表象し、その表象に基づいて行動する。けれども、狩猟に必要なのは、このことを認識することと、これらの特異な自己をしるしのない対象として扱うことの両方である。その目標は、詰まるところ、消費と交換のための肉片へと彼らを変えることなのである。

 すなわち、人間が野生だとみなすものは、主たちによる支配的な観点からすれば、飼いならされている。

 しかしながら、唯一の文化ーー人間も非人間も同様に、あらゆる自己がそこに身を置く〈私〉の観点ーーがある。この意味における文化とは〈私〉の観点である。つまり、それぞれの〈私〉の観点から、あらゆる存在は彼らが生きる異なる自然を文化として見ているのだ。

 自然と文化、飼いならされたものと野生のものは、なぜこのように共鳴するのか。

 誰もが同意するだろうが、人間の精神は一般性、抽象化、範疇を不正に扱う。言いかえれば、形式が人間の思考の中心にある。

 私がここで形式と呼ぶある型に帰結する、とりわけ人間的な仕方による私たちの思考とともに出現する。可能性に対する制約。象徴的指示に関する適合的な論理は、人間的な思考と言語の中心なのだが、例えば、トリという単語のように、一般概念の創造に至る。

 発話はそれが表現する概念よりも、より可変的で、制約が少なく、そして「散らかっている」。

 形式の点からこうした概念を考えることは、あるタイプが見せるこの特徴的な一般性にまで至る。

 したがって、人間的なるものは、形式のひとつの源泉でしかない。

 この型が多くの異なる種のうちに、そして種の分割線を交差する意思疎通の試みのうちにもいく度も繰り返されるということは、人間的なるものを超えた世界において形式が出現し、流布することを例証している。

 つまり、形式とは、それが生きているのでもなく、何らかの思考でもないという事実にもかかわらず、ある種の一般的な実在なのである。

 人類学者としと、アマゾニアにおいて進展する、形式の増福と利用のこうした過程に民族誌的に付き添う道を見出すことができれば、形式が私たちを通過する奇妙な道筋に、私たち自身をより良く慣らすことができれば、形式が私たちを通過する奇妙な道筋に、私たち自身をより良く慣らすことができるようになるであろう。転じてこのことは、思考することが意味する観念そのものを再考するのに役立つような観念的道具として、形式の論理と特性を利用する助けとなるであろう。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳