mitsuhiro yamagiwa

2022-10-21

作動的な論理

テーマ:notebook

第13節 自然哲学における再帰性

 自然は一にして無限であり、かかる自然全体は「みずからの原因にして結果である」というスピノザの見解を、シェリングは採用する。

 生産性としての自然はもろもろの産物を耐えず発生させており、それゆえ自然はつねに生成の中にある。

 思弁的自然学と比較して物理学と化学にできないのは、現象としての自然を超えること、あるいは主観としての自然にとっての客観としての自然を超えることである。

 どの一つの有限な存在者の内にも、しかし一つの無限な過程があり、これを通じて二項対立は超克される。機械的なものと有機的なもの、有限と無限、規則と自由、必然性と偶然性。この無限性は一つの生産的な再帰性により産出される。

第14節 有機体と生態学のパラダイム

 「自然哲学が科学であるのは、それが数学化できる場合のみ、それが数学になれた場合のみである」。ベルタンランフィ

 自然の死とは、かつて自然的であったものがいまやすべて人工的になってしまったということではなく、われわれの知識のシステムにおける一範疇としての自然が、それを観察するわれわれの視点がテクノロジーにより変えられてしまったために、まるで異なる意味をもつようになったということなのである。

第15節 一般有機体、ガイア、あるいは人工地球

 万事が不調であることに気づき行動が起こされる頃には、同じくらい遅々とした改善が始まることさえできない内に、惰性的な抵抗力が物事を悪い状態に引き摺り込んでしまっている。

 しかし、サイバネティクスを制御や統治の機構として非難する前に、われわれはサイバネティクスの或る新たな理解を発展させる必要がある。それは再帰性と偶然性に即した理解である。そうすることでわれわれが向き合う必要のある行き詰まりがいかなるものであるのかを見極めなければならない。

第ニ章 論理と偶然性

 観念論は機械論と神話的な生命力とを克服しようとするが、それと同じようにサイバネティクスは機械論と生気論の対立を超克し、あらゆる領域に一つの作動的な論理を提供しようとしており、そしてそれは「自己意識」というものに特徴づけられている。

第16節『精神現象学』における再帰性

 無制約者または絶対者はどこに位置するのか。始原かそれとも終焉か。もし絶対者が始原にあるなら、偶然性は後からようやく到着し、それから認知されることになる。

 他方、もし絶対者が終焉にあるなら、ひとは偶然性から出発して必然性へと到達することになる。ひとはつねに、フィヒテとシェリングのいうような何らかの絶対的または無制約的なものすなわち物たらしめられていない(Urbedingt)根拠から出発するのかあるいは、ヘーゲルのいうように無媒介の感覚的な確実性ないし抽象的な普遍性を止揚することで絶対者に到達するのか、そのいずれかでなければならない。

 『精神現象学』のまさに冒頭でヘーゲルは、それゆえ、無媒介な感覚の確実性、つまりこれといまの普遍性を却下する。絶対者は理性の始原ではなく終焉にある。

 観念論者は、ヘーゲルが主張するには、たとえば「わたしはわたしである」とか「わたしの対象とわたしの本質はわたしである」といった「無媒介な確実性」を容認するが、それが一つの「絶対的に否定的な本質」であることを見逃している。これは自然にもあてはまる。

 内省的な反省とは絶対者を透明にさせる一つの弁証法的な運動である。つまり概念とは一つの再帰的な過程であり、それは一つの全体として自己と他者を把握することでみずからに到達するのである。しかるに、この旅路は単なるみずからへの回帰ではなく、むしろ保存するとともに破棄するという意味での、止揚の絶えざる過程なのである。

 現象学とは、かくして、無媒介な規定性から確実性そして最終的には真理へという、反省の過程についての一記述なのである。

 シェリングは自然哲学から出発して、自然や過程や進化を哲学的に理解しようとしており、そこでは自然は実存する現働性の連関であり、これが人間の歴史を基礎づけるとともに可能にしているが、他方でヘーゲルは論理学から出発するのであり、そこでは思考が絶対的な理念において自然を把捉しようと欲する。ヘーゲル的な弁証法は否定性に動機づけられているが、これが否定的であるというのは、存在の無媒介性および理性と他者の混同が、存在の本質たる即自かつ対自を把捉するには障礙となるからである。かかる混同を取り払うには一連の反省を成し遂げる必要があり、そこでは所与の自己措定と自己同一が、自己にとっての他者であり矛盾であるものとしての他者の認識をともない、最終的にはかかる矛盾を超克する一つの総合への上昇をともなう。

 否定的な他者という無意識の脅威を解消することでわれわれは本質に到達するのであり、そこにおいて実体ないし主体ないし主観的反省として理解される。

 類比的にいえば、ヘーゲルの仕事は精神のアルゴリズムの一例であり、それは経験的な確実性により定義された或る初期状態と、或る平明な他者準拠の知識からなる。彼の仕事は、他者準拠的な知識の諸条件を自己準拠的な絶対的運動の諸図式に解消するための、一連の指令の進行として検討することができるかもしれない。

 どの運動もそれぞれ一つの反省であり、あるいは後に見るサイバネテイクスの言葉でいえば、一つの再参入(スペンサー=ブラウンのいう意味で)、一つの自己準拠(ルーマンのいう意味で)なのである。

 「自己準拠だけが、絶対的な他在の内での純粋な自己認識という考えを正当化できる。……自己準拠は差異を含意しながら、知識と差異の統一をも含意している」。ピレス

 この自己準拠こそが総体性へと向かう機構である。というのは反省においてこそ自己とその他者が一つの全体として把捉されるからである。真理が横たわるのは自己や他者の内ではなく、かかる全体の内なのである。

 真理が何らかの学問システムを通じて発見されることはない。その妥当性が何らかの論理的なシステムに対して証明されるような一つの命題として発見されるというようなことはないのである。むしろ真理は「学問システムそのものでしかありえない」。こうした全体性こそが有機的な相対性であり、ピレスはこれに触れてはいるが、これと再帰性との関係も、かかる再帰性の本性も、詳しく説明してはいない。ヘーゲル的な再帰性はなおも漠然としている。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。