mitsuhiro yamagiwa

2022-10-19

絶えざる交渉過程

テーマ:notebook

第11節 フィヒテの自我における再帰性

 「制約するとはすなわち或るものを一つの物にする働きであり、制約されるとはすなわち一つの物たらしめられることである。ここから同時に明らかなのは、何ものもみずから一つの物として措定されることはありえないということ、つまり無制約の物というのは一つの矛盾であるということである」。

 フィヒテにとっては絶対我こそが自由の唯一の極であるが、それは他の存在者から措定されるのではなく自己措定に由来するからである。

 自然こそは知識学の対象である。しかるにそれは知性の一つの抽象でしかない。

 シェリングはフィヒテ宛の書簡で、彼が哲学と呼びたいのは「観念論の物質的な証明」であると述べている。

 むしろ観念的なものを実在的なものの上に基礎づけたいのである。

 自然はわれわれの外側の何ものかでもなければ、人間本性のように単にわれわれの内にある何ものかでもない。自然と主観の統一を認識することで主客二元論理を廃絶しなければならないのである。

 すなわち、フィヒテは「主観的主客」を目指し、シェリングは「客観的主客」を探求している。つまりシェリングの考えでは自然は独立している。

 シェリングのいう絶対者はもはや主観の極ではなく主客の絶対的な統一であり、それは絶えず再帰的な運動の中にいる。すなわちシェリングによれば、反省とは分離の過程でもあるからである。主観はみずからについて反省することで「我思う」と「我思われている」を分離する。

 すなわちシェリングによれば、反省とは分離の過程でもあるからである。主観はみずからについて反省することで「我思う」と「我思われている」を分離する。再帰性は或る絶対的な統一という条件の下でしか可能ではない。

 フィヒテ自身の言葉でいえば、自我は「みずからを映す鏡」または「みずからに還帰する行為」なのである。

 万物をみずからを再生産する。そしてそれが途切れることはありえない。どの一つも他のすべてにつながる。形相の活動は質料の活動を規定する。

 活動は円環の道を通りみずからへと回帰する。ただしこの円全体は絶対的に措定されている。それが存在するのはそれが存在するからであり、同一のものにそれ以上の根拠はありえない。〔フィヒテ『全知識学の基礎』〕

第12節 霊魂と自然における円環性

 フィヒテに宛てた或る書簡に、シェリングはこう記している。「わたしたちが述べているのは、意識に導き入れられた客観と、客観に導き入れられた意識についてです。この言葉遣いにおいて、[二つの要素の]統一は[外的に]追加されたものに見えます」。主観と客観の統一に基づいたかかる再起的なモデルはどうすれば可能なのであろうか。問われているのはもはや単なる知識という概念ではなくむしろ哲学という事業である。シェリングにとって哲学とは超越論の物質的な証明である。哲学のシステム化は知識が獲得され進化する道のシステム化でもある。この再帰的なモデルでは主観と客観は互酬関係をなすからどの分岐の後にも統一に到達する。わたしたちがみずからの外側の世界をを知識するとしたら、それはわたしがそれに気づいているという事実にわたしが気づいているのである。そうしてみずからに還帰すると、わたしは外側の世界の知識を獲得している。それはあたかも絶えざる交渉過程ーーあるいはより精確には、シェリングがいうように、永遠の行為(ewiges Handelu)である。これは「自己への還帰」(Zu-sich-selbst-Kommen)という古代の霊魂の概念である。

 ベルンハルト=オラフ・キュッパースはこのような絶えざる差異化と統一化を次のように間欠に要約している。

 このような仕方でのみ絶対者はその同一性を保ちつつみずからを差異化することができる。絶対者がみずからとの何らかの差異に突入すると、それは発展のより高次の段階における何らかの無差別と解消するのであり、そこに絶対者の一般化から特殊へという一つの発展がある。

 かかる自然の捉え方は、自然と自我を一つの相性的なモデルを示すことによってこそ実在的なものと観念的なものは調停されうると見ている。このような見解においては、客観とその規定が直観の内で分離されることは決してない。シェリングにいわせると物質は二つの要素すなわち引力と斥力からなる。

 「部分は全体を通じてのみ可能であり、全体は寄せ集めではなく相互作用を通じてのみ可能である」。諸部分と全体の統一は物質を通じてではなく観念を通じて達成される。観念は第三者として立ち、二つの潜勢的に対立した実体を「包含」する。自然は一つの全体と見なすことができるーー後に『世界霊について』で一般有機体と名づけられることになる一つの全体である。これはまた二つの対立する概念からなる一つの全体でもある。一方には機構、すなわち「原因と結果の遡源的系列」。他方には合目的性、すなわち「機構から独立した、原因と結果の同時性」。これら二つは調停不可能な二つの部分として対峙するが、観念を通じてそれらを統一することで、自然は円環の形式で創発するのであり、それはプラトンが記述した世界霊と同様である。

 もしわれわれがこれら二つの極端(機構と合目的性)を統一するなら、われわれの内に立ち現れる観念は一つの全体の合目的性というものである。自然はみずからの内へと回帰する円環になる。自己閉鎖システムである。原因と結果の連鎖が完全に停止すると、手段と目的の互酬的な連関が起動する。個体が絶対者なしに実現することもなければ、全体が個体なしに実現することもない。

 二つの極端を統一するとともに包含する観念という形式をしたこの第三者を通じて、われわれは自然と精神に一つの同形性を見いだす。

 「自然は可視化された精神でなければならず、精神は不可視の自然でなければならない」。『考案』

精神と自然のかかる関係は一元論によるものではない。そうではなくて、それらは個体化の総称的なモデルを共有しているのである。

 シェリングが初期にスピノザに親近感を抱き宗教から距離を置いたことが、自然哲学および後の思弁的自然学の出現を可能にしたようにも見える。

 しかるに一人の観念論者としてシェリングは、自我に先立つ物質の実在という難題を抱えてもいる。物質の発生と精神の発生を共時化することでしかそのような間隙は消去できない。

 つまり物質には「絶対的に内在的な規定もなければ規定の根拠もない」。

 シェリングの問いは、その分割がどこで終わるのかということである。粒子の実存を前提することは、シェリングにいわせれば、自然を直観的に理解する道でしかなく、哲学的な道ではない。シェリングの代案は非常に思弁的である。彼はもろもろの個体の粒子の実存による物質の基礎づけを拒否し、これを複数の力による発生として認識する。二つの力が相互に打ち消し合うことで平衡に達するとき、そこにあるのがまさに死せる物質であるというのである。

 そのような死せる物質は、可視の自然の中に、実存しえないがゆえに、実存しない。ここにはニュートンの重力解釈に対するシェリングの批判も横たわっている。重力はニュートンにいわせれば引力にほかならないが、シェリングは斥力なしに引力だけを持ち出すのでは不十分であると反論する。それは「現象そのものを説明する意図なしにこれを諸法則に」還元する「科学的な虚構」でしかない。

 重力こそは、これら二つの対立する力を包含し統一する力であり、観念的なものを実在的なものにもたらす力なのである。

 二つの力の衝突は解決されることで一つの同一性を与え、かくして一つの準安定性を与える。われわれの面前に自然のもろもろの対象として見えているものは、一つの準安定状態にある。シェリングは準安定性ではなく凝集性という術語を用いた。

 「凝集性あるいは別の言葉でいえば磁性とは、自我または当事者としてのわたしの印象であり、ここから普遍的な同一性に特有の何ものかがまず創発し、そして形式の領域に登場してくるのである」。

 個体化の下にはなおたくさんの自然の基礎的な原理が横たわっている。それらの原理は物理的なものではなく、二つの対立する傾向すなわち積極的な原理としての統一化と消極的な原理としての差異化という観点から要請される抽象的な原理である。

 すなわち、すべてのものは一と多(多元性)からできているということ、つまりそれは無限者(apeiron’ 普遍性)と有限者(to peras’ 単一性)をみずからの内で統一しているということを。かくしてわれわれもまた万物がこのように設えられているからにはどの一つの対象にも一つの理念を前提しこれを探求しなければならないのである。

 この形式こそ、有限における無限の統一であり、一における多の統一であり、プラトン『ティマイオス』の霊魂を描く一形式、みずからに絶えず還帰する円環運動である。かかる形式をもってしてのみわれわれは、有限における無限、多数性における統一性を、自然においてのみならず芸術においても知覚できる。

 むしろ有機的な形式は機械的なそれをみずからの内へと、より高次のポテンツの内へと、統合することを許容する。したがってそこにはもはや有機的なものと機械的なものとの対立はない。対立は有機体の構造と作動の内に包摂されているからである。有機的な形式は自然と自由の両方を代表している。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。