mitsuhiro yamagiwa

2022-10-24

概念の概念

テーマ:notebook

第17節 有機体論と反省の論理

 再帰性は他者の認識を通じた有機的な全体の把捉を可能にするーーかかる他者はつねに多元的であり、異なる複数の反省の中に状況づけられている。

 有機的な全体は、もろもろの差異を絶えず産出するとともに廃絶する一つの自己充足的な運動として考察されており、それゆえもはや一つの抽象的な概念ではない。

 もろもろの差異は廃絶されるべきものとしてのみそこにある。ただし、この流動は自己充足的な一様のものでありながら、それ自体がこれらの差異の実体の基体なのであり、この内でそれらの差異はそれぞれ別個の成員にして独立した部分として生起する。それらの存在はもはや抽象的な存在を意味するわけではないし、それらの純粋な本質はもはや抽象的な普遍性を意味するわけでもない。それらの存在は純粋な運動それ自体のまさに単純で流動的な実体なのである。

 つまり「異なる複数の動物たちが存在しているのではない。ただ一つの事実だけが支配しているのである。すなわち、まるで或る単一の存在が現象しているかのようなのである」。

 ゲーテは「原型」という考えを棄てはしなかったが、もろもろの硬直した形態を「理念と経験との間の振動」を通じて科学的に捉えることのできる一つの発生の産物として理解しようとした。ただしゲーテが照準を定めていたのは種の系統学ではなく、むしろ「観念論的形態学」と呼ばれる動的な過程であったことは認識しておかなければならない。

 フィンドレーが「みずからを概念把握する概念」(selbstbegreiffende Begriffe)と呼ぶもの、つまり概念が明示的に概念になること、すなわち「概念の概念」なのである。

第18節「自然における概念の無力」

 もし偶然性の問いが認識されず、したがって超克されることもなければ、それはすなわち、実在的なものと観念的なもの、思考と存在とが齟齬をきたすということでもある。

 すなわち、偶然性が一つの論理的な範疇になるときだけ、自然において特徴づけられた他方の偶然性が必然性として認識されるようになるのである。

 ヘーゲルの偶然性は二つの意味をもつ。第一にそれは、自然の中で証明されている通り、不条理な混沌である。第二にそれは、可能的なものや現働的なものや必然的なものと並ぶ、様相の範疇の一つである。

 「合理的なものは現働的であり、現働的なものは合理的である」「自然が無力であるというのは、それが概念の規定を抽象的にしか保有しておらず、特殊なものの形成を外から規定されるがままにしておくことしかできないからである」。

 自然は哲学に対して越え難い一線を画している。というのも概念がそれらの偶然性すべてを説明しようとすれば、概念は偶然性に開かれていることになるからである。

 自然は、さまざまの偶然的な出来事、とくに外からおとずれるものにたやすく影響されてしまう。それはひとえに自然の概念があまりに無力であるために、それらの偶然性を消化できず、そのさまざまの種において変則性や非一貫性をさらすことになるからなのである。

 人間たちにより発展させられた諸概念も欠陥を免れないが、自然においてはなおさらそうなのである。

 なにしろ自然というものは外在的な様態における理念にほかならないからである。人間の場合、そうした欠陥のもとは彼の思いつきや気まぐれや怠慢にある。……自然の場合、それは生ける存在者の諸形態を歪曲させるもろもろの外在的な条件にある。

 ヘーゲルとシェリングでは自然の役割について一つの有意な違いがある。ヘーゲルにいわせれば自然は端から観察する理性の一対象であるが、シェリングにいわせればそれは反省の一対象となるに先だち何よりもまず前意識的に感覚され(Empfunden)直観される(Angeschaunt)ものである。

 植物の過程は三段論法に落とし込める。……その第一は普遍的な過程であり、植物有機体みずからの内なる過程、個体のみずからとの関係である。これは形成の過程であり、そこにおいて個体はみずからを破壊し、みずからをその無機的な自然に変換し、そしてこの破壊という手段によりみずからを産出する。第二の過程においては、生ける存在者はその他者を内に含むのではなく、外から独立したものとしてこれと対面する。

 第三は類の過程であり、最初の二つを統一する。これはもろもろの個体が類としてなす過程、あるいは類の生産と保存である。

 すなわち、形成過程、同化過程、類的過程である。

 生成すべきものは、すでに存在している。換言すれば、生成とはこのようなただ皮相的でしかない運動なのである。

 「概念が前進するということはつまり中心にあるみずからの内へと向けて回帰するということなのであり、それはすなわち概念にとっては不適切な実存たる無媒介的または外在的なものが主観的な統一ないし自己-内-存在へと同化するということなのである」。ヘーゲル

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。