mitsuhiro yamagiwa

2023-02-19

似像

テーマ:notebook

14 偽名

 あらゆる嘆きは言語活動についての嘆きであり、あらゆる称賛はなによりも名前の称賛である。それらは人間の言語が支配し妥当する範囲、言語が事物を指示する仕方を定義する両極である。自然が言語の指示するものによって裏切られたと感じるところでは、嘆きがはじまる。名前が事物を完全に表現しているときには、言語活動は称賛の歌を歌いあげて名前を神聖化するにいたる。

 言語活動にたいするプチ・ブルジョワ的な不信は、ここでは指示対象にたいする言語活動の恥じらいに転化している。指示対象はもはや言語が指示するものによって裏切られた自然でもなければ、それが名前へと変形されるものでもない。そうではなくて、それはーー発語されないままーー偽名のなかに、あるいは名と異名のあいだのくつろぎの空間のなかに保持されている。

 《何ものかを絶対に口にしないでいる魅力》

 似像ーーすなわち、聖パウロの手紙のなかで死なない自然を前にして死にゆくものを表現するのに使われている語ーーが、ヴァルザーの手紙がこの〔名と異名のあいだの〕開けた空間のなかで生じる生にあたえている名前である。

15 階級のない社会

 もし人類の運命をいまいちど階級というかたちで考えてみるべきであるとしたなら、そのときには今日、もはや社会階級は存在せず、ただひとつ惑星的なプチ・ブルジョアジーが存在するだけであって、そのなかに旧来の諸階級は解消してしまっていると言うべきだろう。プチ・ブルジョワジーが世界を継承してきたのであり、それは人類がニヒリズムをかいくぐって生きつづけてきたさいにとった形態なのであった。

 だが、このことはまさしくファシズムとナチズムもまたつかみ取っていたことであった。それどころか、旧来の社会的主体が取り戻しようもなく没落してしまったことを明確に見てとっていたことこそ、それらは乗りこえようもなく近代性を刻印されていることを証し立ててている。

 それらが代表していたのはなおもまがいものの人民的アイデンティティにしがみついた一国的なプチ・ブルジョワジーであって、その人民的アイデンティティに依拠したところでブルジョワ的偉大さの夢が作動していたのであった。

 存在するもののいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのもののなかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。彼は非本来的なものと真正でないものしか認めない。そして本来的な言葉という観念までをも拒否している。この地上でつぎつぎに入れ替わり立ち替わり登場してくるさまざまな民族と世代の真実と虚偽を構成してきた母語、方言、生活様式、性格、慣習の相違、そしてなによりも各人の身体的個別性そのもの、これらのすべてが彼にとってはいっさいの指示内容を失い、いっさいの表現と伝達の能力を失ってしまっている。

 こうして羞恥と傲慢、大勢に順応しようとする姿勢と周縁にとどまりつづけようとする姿勢が両極をなして、彼の情動生活のありとあらゆる色調を構成している。

 すなわち、もし人間たちがあれやこれやの個々人の伝記的な自己同一性のうちにあってそんなふうに存在しているのではなく、無条件にそうなふうに存在しているにすぎず、それぞれが独自の外面性と顔つきをもっているにすぎないというようなことがありうるとしよう。そのときには、人類が初めてもろもろの前提や主体をもたない共同体、もはや伝達不可能なものを知らないコミュニケーションへと入りこんでいくだろうからである。

 新しい惑星的な人類のなかでその生存を可能にするそれらの性格を選り分けること、メディアをつうじてなされる悪しき宣伝活動をただひとり外部性のみ伝達する完全な外部性から切り離している、薄い隔壁を除去することーーこれがわたしたちの世代に託された政治的任務である。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。