mitsuhiro yamagiwa

2023-02-17

元型のない類似性

テーマ:notebook

11 倫理

 倫理にかんするあらゆる言説の出発点に置いておくべき事実は、人間にはそうであったり実現しなければならなかったりするどんな本質、どんな歴史的ないし霊的召命、どんな生物学的運命も存在しないという事実である。唯一このためにこそ、なにか倫理のようなものが存在しうるのである。というのも、もし人間があれやこれやの実体、あるいはあれやこれやの運命を背負った存在であったり、そのような存在でなければならないとしたら、人間にはなんらの倫理的経験も可能ではなく、ただ実現すべき任務が存在するにすぎないだろうからである。

 すなわち、人間はそうであることもできればそうでないこともできるのだから、すでにつねに負債を抱えこんでいるのであり、なんらかの罪になる行為を犯してしまう前からすでにつねに良心の疾しさを感じているのである。

 これが原罪にかんする古来の神学的教理の唯一の内容である。ところが、道徳はこの教理を人間が犯すかもしれない罪ある行為と関係させて解釈する。そして、このようにして、その可能性を縛って、それを過去に向かわせる。

 しかし、悪を認証するということはあらゆる罪ある行為よりももっと古くから存在しており、もっと根源的である。そして、それはもっぱら、人間は自らの可能性ないし能力でしかなく、またそうでなければならないところから、ある意味では自己を欠如していて、この欠如を自分のものにしなければならず、可能態として現実存在しなければならないという事実に依拠している。

 唯一の倫理的経験(それはそのようなものであるかぎりで義務でもなければ主観的な決断でもない)が、(自らの)可能態であること、(自らの)可能性として現実存在することであるのは、このためである。すなわち倫理的経験とは、あらゆる形あるもののうちにあって自分自身は形なき存在であることを露呈させること、あらゆる現実化されたもののうちにあって自分自身は現実化することがないことを露呈させることなのだ。

 これにたいして、唯一の悪は現実存在の負債のうちにとどまりつづけようと決意すること、存在しないでいる能力を現実存在の外にある実体ないし根拠として自分のものにしようと決断することである。あるいは(そしてこれが道徳の運命なのだが)人間の現実存在の最も本来的な様態である可能態そのものをなんとしても抑えこむ必要のある罪であるかのように見なすことである。

12 ディム・ストッキング

 商品化は人間の肉体をその神学的モデルから自由にさせながらも、しかしまたその類似性はなおもそのまま保存している。なんであれかまわないものは元型のない類似性、つまりは(イデア)なのだ。

 かつて個人のピュシス〔自然〕には他人には容易にになじめず理解しがたいものがあったが、これもそれがスペクタクルとしてメディア化された結果撤廃されてしまった。

 それでもなお、テクニック化の過程は、肉体を物質的に覆い尽くすことはせずに、それとは実際上なんの接触点ももたないで独立したひとつの領域を建設することへと差し向けられていた。テクニック化されたのは、肉体ではなくて、その形象(イメージ)だったのだ。

13 光背

いっさいはいまここにあるとおりだろう。そしてほんの少し相違しているにすぎないだろう。

なぜなら、たしかにそれはたんにわたしたちの周りで現実に起きる事情にかかわることがらではないからである。

ちっぽけな位置移動が関係しているのは事物の状態ではなくて、その状態の意味および限界である。

その位置移動が生じるのはもろもろの事物の内部でおいてではなく、それら周辺、それぞれの事物とそれ自身とのあいだの余裕空間においてである。

このことは、もし完成が現実的な変化を含意しているのでないとしたなら、しかしまたそれはたんにもろもろの事物の永遠状態、治癒不可能な《そんなふうにして存在している》でもありえない、ということを意味している。逆に、その寓話は、そこではいっさいが完全である可能性、いっさいが永遠に完結してしまっている《別なふうに》を導き入れている。そしてまさにこのことがその解消不可能なアポリアをなしているのである。

光背は完成に付け加えられるこの付加物である。なにか完成されたものの身震い、その極限の虹彩のようなものなのだ。

つまりは逆説的にも無限定化をつうじての個体化なのだ。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。