mitsuhiro yamagiwa

2023-06-20

予期せざる間隔

テーマ:notebook

 一九七八年三月一七日の午後、デリー北部の天候は奇妙な急変をみせた。

 この接触の瞬間、わたしのこころの奥底に、なにかが深く埋め込まれたーーなにものにも還元できない神秘的ななにか、わたしがそれ以前に曝された危険や目撃した破壊とはすっかり異質ななにか、そのもの自体の特性ではなくそれがわたしの人生と交差した仕方の固有性にかかわるなにか、が埋め込まれたのだった。

 偶然の一致や確率の問題として考えるのは、その経験を貧しいものにするだけだと思われた。

 「蓋然性が乏しい」とは「蓋然性がある」と対になる概念ではなく、むしろ蓋然性の連続体における度合いの問題である。では、数学の世界では「確率論」とも呼ばれるこの蓋然性の問題が、フィクションといったいなんの関係があるというのだろうか。

 蓋然性(確率)にもとづく思考とは「われわれが〔偶然的な〕世界を理解するやり方で、それとは気づかずにできあがっているもの」なのだから。

 かくして小説は、〈蓋然性の乏しさ〉を追放し〈日常性〉を挿入することにより生を享け、世界中に広がることとなった。

 いずれにおいても読者は、視線とその先に見られるものを通じて「場面」へと導かれる。わたしたちは、「垣間見」たり「見とどけ」たり「見わた」したりするよう促されるのだ。

 アガンベンが「規則の真の生命が例外化であるとする」『ホモ・サケル』

 自然は飛躍しないかもしれないが、たしかに跳躍はする、というのが厄介なのだ。

 いずれにしろ議論の余地なく言えるのは、激変(カタストロフィ)は地球とそこに住む者たちをともに待ち伏せしており、予期せざる間隔をおいてまったく蓋然性の乏しい仕方で襲ってくる、ということだ。

 わたしたちが経験している出来事は、いかに蓋然性が乏しかろうと、シュールでもマジカルでもなく、どうしようもなく差し迫ったものとして驚くほどリアルなのだ。これら現実の出来事を比喩的・寓意的あるいはマジカルなものとあつかってしまうと生じるであろう倫理的困難は、おそらく自明のことだろう。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳