mitsuhiro yamagiwa

人新世は、近代が内包していた時間秩序を反転させた。人類全体を待ちうける未来が最初に経験されるのは、いまや、周縁にいる人びとによってなのだ。

第一部 物語

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 認知とは無知から知への移行=通路のことである、とは有名な言い回しだが、そうすると、認知するという行為はまっさらなはじめての出会いとは似て非なるものであることになる、そこで言葉が交わされる必要もないーーたいてい、認知は無言のうちになされるものだ。また、認知することはけっして、目に映るものをいちいち理解することを意味しはしないーー認知の瞬間においては、理解が関与する必要などありはしないのだ。

 「認知=再認(recongnition) 」という単語でもっとも重要なのは「再(re)」という接頭辞であって、その意味するところは、先行するなにものかを思い返すということ、無知から知への移行を可能にするような認識はじつはすでにあり、そこにあらためて思い至ることーーそれが認知という行為なのである。認知の瞬間とは、先だってよりもちあわせていた認識が突如としてパッとひらめいたとき訪れるもので、それが一瞬にしていままさに眼前にあるものごとにたいする理解に変容をもたらすのだ。

 すると、認知の結果得られる知は、新しいものの発見とは種類がことなるということになる。認知が生じるのは、むしろ、それ自身のうちに留まる潜勢力があらためて勘定に入れられることによってなのである。

 かくもダイナミックな地形においては、変幻自在であることそれ自体が、認知の契機=瞬間をかぞえきれぬほど生みだすものだ。

 気候変動が現代作家につきつける難題=挑戦は、ある意味では個別具体的なものでありながらも、より広く古いなにものかによって生じたのであり、つまるところその原因は、大気中の炭素蓄積が地球の運命を書き換えてきたこのら時代とまさに時をおなじくして物語ることの創造力に〔新たな〕かたちをあたえることとなった文学的慣習や形式の格子に由来するーーそういった〈認知〉に、わたし自身が至ったのである。

 問題が情報の欠如から生じたものでないことはあきらかだ。現代世界のあちこちで気候システムが乱れに乱れていることに気づかず暮らしている作家など、ほとんどないはずである。

 ギャヴィン・シュミットとジョシュア・ウォルフの定義によれば、「フィードバック・ループの概念は気候システムの中心に位置しており、そのシステムの複雑性の多くはこの概念によって説明される。気候現象においては、あらゆるものがほかのあらゆるものとつながっており、なにかひとつの要素に変化が生じると、その変化の波が、そもそもの原因となった変化を生んだ要素に戻ってきて影響を与える」。

四 

 ディペシュ・チャクラバルティは、その先駆的な論文「歴史の気候」のなかで、〈人新世〉ーー「人間が地質学上の行為主体となって、地球のもっとも基本的な物理過程をも変化させるようになった」地層年代ーーと呼ばれるこの時代においては、歴史家もこれまで自らのものとしてきた根本的な前提や手続きの多くを見直さなければならないだろう、と述べた。

ーー〈人新世〉は、諸芸術や人文学のみならず、わたしたちの常識的理解、さらには同時代の文化全般ににたいする挑戦となっているのだ、と。

ーー気候変動の危機はまた、文化の危機であり、したがって想像力の危機でもあるのだ。

 この文化は、もちろん、現代世界をかたちつくった帝国主義と資本主義の歴史と密接な関係をもっている。

 今日の作家や芸術家が直面している問題は、たんに炭素経済(カーボン・エコノミー)がらみの政治的問題なのではなく、むしろ多くの部分は文化的生産にかかわるわたしたち自身の実践にも関連しており、そういった実践がいかにして文化のより大きな領野の隠蔽と共犯関係にあるのか、と問わざるをえない状況が見えてくる。

 かれらが到達すべき結論、せいぜい到達しうる結論、せいぜい到達しうる結論は、芸術や文学のほぼすべてが、人びとが自らに惨状を認知するのを妨げるべく仕組まれたさまざまな隠蔽の様式へと引きずり込まられていくような、そんな時代をわたしたちは生きているのだ、という以外にないのではなかろうか。そう考えると、自己認識を自画自賛して得意になっている時代が、将来的には〈大いなる錯乱〉の時代としてふりかえられることになるというのも、じつにありそうなことでは、ないか。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳