mitsuhiro yamagiwa

2023-06-23

視野の外におくこと

テーマ:notebook

 「気候変動は本質的に不気味なものだ。天候というもの、そしとその天候を変化させている高炭素なライフスタイルというものは、われわれにとってあまりにも慣れ親しんでものでありながら、いまや新たな脅威と不確実性にさらされているのだ」。

 その不気味さのまさに核心にあるのは、わたしたちが〔じつは気づいていながら〕目を背けていたものがその遭遇において認知されるという事実である。つまり、人間ならざる対話者が現に存在し、しかも身近にいるということが不気味なのだ。

 ーー人間はけっして単独で存在するものではなく、意志・思惟・意識といった人間固有の能力と思いなしてきた要素を共有するさまざまな種類の存在者につねにとり囲まれて生きている、という気づきを。

 こういった〈認知=再認〉の〔同時多発的な〕再活性化が、たんなる偶然でありうるのだろうか。

 むしろ、この同時多発性が示唆しているのは、この世界は(たとえば森がそうであるように)わたしたちの思考プロセスに介入する能力を十分にもっているさまざまな〔人間ならざる〕存在(entity)に満ちあふれているということではないだろうか。そうだとするならば、知性や行為主体性を不当にもすべて人間固有のものとみなし、ほかのあらゆる存在にそれらを認めないデカルト的二元論にもとづく思考法を見直させるために地球自身が介入してきたのだ、という言い方もまたできはしないだろうか。

 ーーわたしたちは、いままでずっと、見たところ生命をもたないモノどもは人間が思考する対象であると思いこんできたけれど、じつはわたしたち人間自身が、ほかのさまざまな存在によって「思考」されていたのでないのか、と。

 自然が人間と乖離したものであるという幻想が生まれたのは、人間が自らを神格化した結果にすぎないのだろうか。人間ならざる行為体がそんな幻想を吹き飛ばしてしまったいまとなっては、わたしたちには突如として新たな課題がつきつけられることとなったーーこの時代の思いもよらない諸存在や諸事象を想像可能にするような、これまでとはことなる方法を見いださなければならいという課題が。

 海岸への隣接が権力と安全保障、支配と征服を意味するという植民地主義的な世界観が、いまや世界中の中産階級的居住パターンの基礎に組み込まれてしまったのだ。

一一

 世界中の多くの海岸都市が謳歌する「発展」が、リスクにたいしてしっかりと目をつぶっておくことに依存しているというのが、今日の現実なのだ。

 気候変動にともなって、世界各地の核施設の多くは海面上昇の脅威にさらされている。

 ーーわたしの人生は、自分でそうありたいと願っているのとは裏腹に、理性に導かれているのではなく、むしろ日常の暮らしのなかでつちかった習慣の惰性に支配されているのだ。これこそまさに、人類の圧倒的大多数がおかれている状況であり、それがために、地球温暖化対策として必要なさまざまな変革がわたしたち一人ひとりにゆだねられたときに、ほとんどの人はうまく対応できないのだ。

一三

 人新世は、近代が内包していた時間を反転させた。人類全体を待ちうける未来が最初に経験されるのは、いまや、周縁にいる人びとによってなのだ。ソローがかつて「広大かつ巨大で、非人間的な自然」と呼んだものと、もっとも直接的に向き合っているのは、こういった人びとなのだ。

 かれらの多くは、そもそも、移民してきた先のこの街を目下おびやかそうとしているものとまさにおなじ現象によって、これらすべてのことの背後にあるのは、かの〔地球規模の〕連続性であり、その連続性を稼働させる想像を絶する巨大な諸力なのだ。こういったことを視野の外におくことは、もはや(テクストにおいてさえも)とうてい不可能となっている。

 ここにもまた、小説というジャンルにもっとも親しい技法にたいして人新世が呈示する抵抗のかたちーー量的なそれーーを見ることができる。人新世は、その本質において、だいぶむかしに小説の領域から排斥された諸現象ーー時間・空間においてかけ離れた事象を耐えがたいほど親密に結びつけてしまうような、思考しえぬほどに巨大な力ーーからできあがっているのだ。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳