mitsuhiro yamagiwa

はじめにーーケアとセルフケア

 現代社会において最も普及した労働の形態はケアワークである。人間の生命を保障することはわれわれの文明によって究極の目的とみなされている。

 「健康は救いに代るものである」。

 しかし人間の身体のケアは、医療という語のせまい意味を大きく超えている。

 われわれの文化は、写真、記録、動画、手紙やEメールのコピーや、その他の人工物など、われわれの物質的な肉体の拡張を永遠に生み出している。

 それは、われわれの魂にとっての精神的な死後の生の代わりに、ケアに関わる諸制度が、われわれの身体の物質的な死後の生を保障していることを意味する。

 多くの場合、内科医はわれわれの物理的な身体を全く診察しない。記録の吟味で十分なようだ。これは、われわれの物理的な身体のケアと健康は、われわれの象徴的な身体を管理するより大きな監視とケアのシステムへと統合されていることを示している。

 ケアのシステムはわれわれを患者として対象化し、生きている死骸へと変え、自立した人間ではなく病んだ動物としてわれわれを扱うように思われる。

 実際、内科に行ったときに尋ねられる最初の質問は「どうしましたか?(What can I do for you?)」である。

 セルフケアがケアに先立つのである。

 われわれにとって自分自身の物理的身体のケアをすることは、多かれ少なかれ何も知らないものについてケアをすることである。

 われわれの世界におけるあらゆるものと同じように、医療システムは実際にはシステムではなく競争の領域である。

 われわれは知識を権力と同等とすることに慣れている。

 しかし自分の物理的および象徴的身体のケアテイカーとしては、私は知識の主体ではない。

 私のアイデンティティは他者たちが作ったものなのである。

 セルフケアを実践することは、自分自身をケアの対象に変えることを意味する。

 健康への投資は、社会生活に参加することを可能にする基本的投資である。

 身体は完全に社会化され、官僚化され、政治化される。

 公的、象徴的で、メディアに媒介された身体が、物理的で私的で個人的な身体と一致し始める。

 インターネットはわれわれの最も日常的で個人的な必要性と欲望を満たすメディウムとして機能する。そして同時に、公にアクセスすることができるよう、それらをデジタルメモリに書き込むメディウムとしてインターネットは機能する。

 しかしプライバシーへと戻ることは、つまり、無制限の身体の個人所有へ戻ることであり、それはケアのシステムにとって破壊的なものとなるだろう。

 個人である主体は、選択を行うのに必要な知識を持たずに、それらの中から選ばなければならない。

 なぜならば、あらゆる種類の知識は、受け入れられ実践されさえすれば、強力になるからだ。哲学の伝統はこの弱さと強さのアンビバレンスを反映する伝統として理解しうる。様々な哲学の教えは、ケアとセルフケア、依存と自律のさまざまなタイプの関係性を示唆している。

『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳