mitsuhiro yamagiwa

2023-12-31

自然な死

テーマ:notebook

1 ケアからセルフケアへーープラトン、ソクラテス

 哲学の運動は、前へと進む運動ではなく、教育と知識の道を進む進歩でもなく、元に戻る運動、知識のない状態への後退である。

 真実は、われわれを超えたところよりも、むしろわれわれの中ーー極めてよく知られたものとなった一連の論法ーーにある。

 真実への欲望は個人が生きる社会によって個人に課される。

 セルフケアの脱中心性はケアの制度に服従したままである。

2 セルフケアからケアへーーヘーゲル

 フランス革命は究極の人間主体の歴史的な顕現となり、同時に歴史の終わりとなったのだ。「こうした絶対の自由のもとで、社会をなりたたせるべく全体が部分にわかれるなかで生じた階層や地位・身分は、すべて解体され、社会の一分野に属しつつ、そこで意志し行為していた個々の意識は、その制約を破棄してしまう。個人の目的が共同体の目的となり、個人のことばが共同体の掟となり、個人の仕事が共同体の仕事となる」。

 したがって、革命後の死への恐れは革命前の神への恐れと同じではなかった。今や個人は、外的な危機ではなく、それ自体の自由の作用としての死を知っている。この意味において、自由は否定することは肯定的になる。この知識が個人の本質となるように、いまや個人は自分自身を知っている。

 歴史は否定の歴史である。

 誰かに代表されたり代行されたりするだけの自己は、現実に存在する自己とはいえないし、だれかがとってかわるとき、かわられた当人は形のない存在なのだから。

 いまや理性的人間になることは、致死的な危険を避け、暴力的な死、したがって戦争と革命を避けることを意味した。もはや自分の人生を犠牲にしようとするべき歴史的ゴールは存在しなかった。その代わりに実践できる唯一の活動は自己保存だった。

 文明の唯一の目的は法の支配によって保証された個人の人間の保護にとどまるのかどうか、ということである。そうであれば、激しく動かれた戦争と革命の歴史的身体は、動きを止められたケアの身体となるだろう。精神はそれらを見捨てるだろう。

 歴史後の社会は完全な保護、完全なケアの社会である。しかしこのケアは人間自身から人間を守るが、人間に自然な死をもたらす。

 しかし、ここで見過ごされているものがある。人間の身体は単に社会化されたケアの身体ではないということだ。

 ヘーゲル後の身体は象徴的身体となった精神の内側に閉じ込められている。そして今や、わわれの精神的な自由ではなく、むしろわれわれの健康、純粋な生命力が、象徴的身体の境界に抗してわれわれを押し出し、近代の羊飼いである生政治国家とその保護のメカニズムを否定する。

『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳