mitsuhiro yamagiwa

第 6 章 訓練された判断

機械的複製の不安

 「いつ我慢する必要があるかを知ること、いつ止める必要があるかを知ること、これらは才能ある人たちの能力であり、さらには天才の能力である」シャルル・リシェ

 構造的客観性主義者たちは、指示と経験に基盤を持つ客観性を疑わしく思い、問題なく共有できる構造へとまとめられる関係性の方を好んでいた。フレーゲによれば、数の概念は指示対象から直接出てくるのではなく、同一性によって定義される。つまり、「同じ数」というのは、対象となる二つの集合を要素ごとに対応づけるものである。「私は赤色を見ている」という主張も、個人の内的な反応について直接的に言及しているわけではない。むしろそれは、スペクトル上でほかの色のあいだに位置するひとつの色と結びつけられるものなのだ。

 構造的客観性は、私たちのいない世界の探求を深めていったーーしかしそれは、対象を経験的、模倣的にとらえることから離れ、関係と構造へ向かうことによって深められるものであった。

 機械的客観性を備えた光景を支持する一部の人々からは、写実主義と正確性と信頼性はすべて写真的なものと同一視された。自然は、決まった手続きを通じて生み出される図像において自ら複製する。客観性とは自動的なものであり、探求の対象からアトラス図版へ、そして印刷本へと、形態を保った(同形な)図像を次々と生み出すものである。写真はこうした同形性のテクノロジーのなかでもとくに重要であり、描写と描写されたものとの同一性を保証するものであった。

 写真は誤って扱われると、そこにないものを明らかにし、そこにあるものを隠してしまう。

客観性のために正確性を犠牲にすべきではない

 眼は信号のある部分を「規則的」あるいは「典型的」なものだと素早く評価するのだ。第二に、目は何の助けも借りることなく、「パターン」を見分ける。

 必要とされるのは主観的なものであり、「訓練された眼」であり、「経験的なわざ」であり、「知的な」アプローチであり、「パターン」の同定であり、「一目で」つながりに気づくことであり、幅広い変異のうちから「典型的な」下位系列を抜き出すことであった。

 主観性が分類の重要な特徴となった。それは対象が普遍的な本質を見せてくれなかったからであり、かつ、二〇世紀半ばにおいては、さまざまな分野でますます多くの科学者たちが、厳格なプロトコルがなくても対象を一意的に分類できるよう人々を訓練できるのは良いことだと思いはじめたからである。観相学者の視覚は、教えることができるものだったのである。

 ウィトゲンシュタインは、共通する特徴を単純に機械的に抽出することを超えた一般化の方法を探求していた。

 そのあいだ一貫してウィトゲンシュタインが強調したのは、一目で得られる知識の重要性であり、類縁関係にある形と形のあいだにある(概念上の)「中間項」を埋める人間の能力であった。

 判断する眼だけが、病変やそれまであいまいだった粒子の軌跡を「正常な変異」のもつれた視覚世界から救出できた。機械的客観性だけでは、十分ではなかったのである。

判断のアート

 表象は対象と同形でなくてもかまわない。つまり、世界から構築された画像が実際に見えたものと形の上で対応している必要はないーー対象が遠いところにあるとき(もしくは私たち人間のスケールよりもずっと大きかったり小さかったりするとき)、表象が見えるものと対応している必要すらない。

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。