mitsuhiro yamagiwa

第 5 章 構造的客観性

図像のない客観性

 科学的客観性とは自然をあるがままに見ることではない。それは不可能だ。また科学的客観性は感覚や観念への忠実さとは無関係である。感覚や観念は人間の神経システムが生み出す幻影にすぎない。*むしろ客観性は、さまざまな感覚のあいだにある一定不変の関係のうちに存在している。そこではさまざま感覚が、世界の像としてではなく、むしろ言語を表現するために使われる抽象的記号のように読まれるのである。
 機械的客観性は可視化できた。しかしあらゆる図像を拒否する客観性があり、それは図像(体の眼で知覚されたものであれ、心の目で知覚されたものであれ)を取り返しのつかないほどに主観的であるとして拒否する。

 客観性の核として「構造」を認めた者たちは、構造ということできわめて多様な事柄を理解していた。すなわち、論理、感覚の順序づけられた継起、数学の一部、数学の全体、統語、変換の過程で変わらずに残るもの、ありとあらゆる形式的な関係である。

 これに対して「客観性」という言葉は、単に呪文のように唱えるだけでなく、団結するためにも用いられていた。

 感覚生理学は、一人ひとりがどれほど互いに異なる仕方で推論し、記述し、信じるのか、そして知覚の仕方すら人によって異なることを示してみせた。これらの科学者たちは、主観性という危険を、人間が一人ひとりで異なりうるという見地から再構成した。この個人間の違いの典型例が感覚経験であった。

 一見すると、機械的客観性と構造的客観性は図像だけにかかわるのではない。統計的な技術と実験の手続きを入念に定めることによって、自然に主観が投影されるのを防ごうとしていたのである。

 機械的客観性は、期待、仮説、カテゴリーをデータに押しつけて、自然の腹話術となってしまう科学者の自己を抑制する。

 したがって機械的客観性のメタファーは、男らしい自己抑制であり、意志によって制御された意志であった。

 構造的客観性が対処しようとしていたのは、外界から切り離され、独我論の危険にさらされている私的自己の問題であった。この問題に対して推奨された対抗策が強調したのは、抑制ではなく断念であった。自分自身の感覚と観念をあきらめて、あらゆる思考者にアクセス可能な型式的な構造を選ぶのである。

 すわなち、論理性というものは、私たちが自分自身の運命に関心をとどめることをせず、共同体の全体に関心を寄せることを、厳格に要求している。この共同体も限定されてはならず、私たちが直接的にせよ間接的にせよ接触することができるあらゆる種別の存在にまで拡張されていなければならない。

 つまり機械的客観性と構造的客観性が共有していたのは、ありのままの事実を明るみに出すという主張ではなく、主観性という共通の敵だったのである。

 客観性はいつも、そのより強力で脅威的は補完物である主観性によって定義される。しかし機械的客観性によって抑制される自己が、意志を中心に据えるカント以降の哲学の産物であるのに対して、構造的客観性によって断念される自己は部分的には科学自体による発見、とりわけ当時はまだ新興の感覚生理学と実験心理学の発見の産物であった。

 客観的であるとは、感じたり直観できたりするようなものではない。なぜなら感覚と直観は個々人で異なるとわかっており、しかもその違い方はどうしようもなく私的なものだからだ。また客観的であるとは、あらゆる理論的解釈を削ぎ落としたむき出しの事実でもない。

 客観性とは持続する構造的な関係であり、数学的な変換、科学上の革命、言語上の変化、文化的多様性、心理的進化、歴史の気まぐれ、そして個人レベルでの生理機能の特異性によっても変わらずに残るものである。

 究極的には構造的客観性は、機械的客観性が認める観察可能な事実のうちに存するのではなく、「経験そのものの究極的に不変のもの」のなかだけに存するのである。

 データや図像は自ら語る事実なのである。「事物そのものが語る」。

 人は自分自身の意識の内容を信じたいという衝動に抵抗せねばならない。

 構造的客観性は、機械的客観性と同じく、なによりもまず認識論にかかわり、存在論にはかかわらないのである。

心の客観的科学

 カント自身は「客観的」、「主観的」という言葉を道徳的な判断、美的な判断、認識論的な判断のすべてに対して使っている。このことは、共有された理性と共有された世界の範囲を、カントが可能な限り広いものにしようとしていたことを物語っている。

 しかし一九世紀も中盤を迎えるころには、共有された理性の客観性と、共有された世界の客観性とのあいだに裂け目が生じていた。世界についての科学的な研究は、客観性を経験的なものと見なしていた。これはしばしばカントが「経験的に」という言葉を主観的な感覚のほぼ同義語として使い、それらに「単なる」という軽蔑の念をこめた修飾を与えていたのとは対照的であった。

 これらすべてが目指していたのは、知覚から推論までの心的な過程を自然現象として理解することであった。「共有された理性」は、客観性を評価する規準ではなく、それ自体が客観的で経験的な調査の対象となったのである。

 心理生理学という新しい科学にとって、根源的な次元は時間であった。神経伝達の時間、反応時間、注意持続の時間である。時間という次元に即して、心的過程は測定された。

 数の概念は元をたどれば時間の直観から来ている。時間の直観は、意識のなかでの個々の感覚と表象の連続から来ている。言語とシンボルによって可能となる抽象化の過程を経て、数の概念はいかなる個別的な経験を達しえないような一般性を達成する。とはいえ、それらの概念は究極的には経験的な起源をもち、また経験的に使われるものであるため、「具体的な例に翻訳」されなければならないのである。

 抽象化は主観的な表象を「客観的な」概念へと変形する。客観的な概念が直接的な知覚の形で意識へもたらされることは決してない。しかしもっとも抽象的な思考の法則にしても、何らかの形の表象は必ず必要とする。このため直観の代わりに、概念をシンボルによって表現する必要がある。数学の歴史が、一般性と抽象性を高めていく方向に進展してきたのは確かである。しかしヴントの考えでは、数学の対象と概念の経験的起源の痕跡はなお、公理、定義、定理のなかに化石のように埋め込まれている。実際、もっとも根本的な公理と定義(数、大きさ、空間)が、もっとも明白に数学の帰納的な起源を明らかにしている。

実在的なもの、客観的なもの、伝達可能なもの

 ロッシェによると、「論理的客観化作用」というのは外的な世界と関係するのではなく、「すべての思考する者にとって同一であり、思考する者に依存していない共通の世界」と関係するのだった。『論理学』

 フレーゲによれば、客観的なものは必ずしも物理的に実在していなくてもよい。むしろ実在するものは客観的なものの一部をなす。対して客観的なものは「法則的なもの、概念的なもの、判断可能なものであって、それらは言葉で表現できるものである」と定義される。

 フレーゲにとって、主観的な心を定義するのは二つのカテゴリーであった。それらはともに経験から引き出され、何らかの形で心の目によって見えるものだった。すなわち表象と直観である。

 表象は対象の心的な像であり、それは感覚か想像力によって形成される。直観もまた何らかの形で「像にできる」ものであるものの、経験の空間的な、時間的、そして因果的な順序に関するより根源的な前提である。表象にしても直観にしても、フレーゲに言わせれば取り返しのつかないほど主観的である。

 「表象は担い手を必要とする。……私の意識の内容であるということが、私のどの表象の本質にも属しているのであるから、他人のどの表象も、まさにそのようなものとしては、私の表象からは区別されるのである」。

 客観的な感覚は外的な世界と関係するのに対して、主観的な感覚は感覚器官そのものと関係する。

 フレーゲにとって主観性に対する戦いは、現れに対するプラトン的な軽蔑にも身体感覚へのデカルト的な不信にももとづいてはいなかった。それはむしろ、表象と直観の私秘性と個人性を乗り越えるための戦いから来ていた。

主観性の色

 「すべての人にとってまったく同じもの以外は客観的ではない。ところで、そのように同じだということができるのは比較が可能で、精神から他の精神へと引き渡すことのできるような「交換貨幣」に翻訳し得る場合だけにかぎる」。

 ゲーテにしてみれば、客観的な現象と主観的な現象は相補的であり、色の科学にとってはともに本質的である。違いは場所(観察者にとって内か外か)と持続時間(束の間のものか、より長く続くか)にあり、実在かどうかという点で違いがあるわけではなかった。

 プルキンエによれば、一番難しいのは、視覚の主観的な印象から客観的な印象を切り離す能力をう鍛えることであった。

神ですら言えないこと

 「言葉なくして客観性なし」。これにより、自分自身の感覚を含めて、感覚は追放される。

 たとえ生の経験は伝達できなかったとしても、関係ならば伝達できる。「こういう見地からすると、客観的なものはすべてあらゆる性質の欠けたものであって、純粋の関係だけにほかならない」。ポアンカレは生涯をかけてこの微分方程式を研究し、力学の基本的な要素を把握しようと努めた。

 「要約すると、唯一の客観的な実在は事物の間の関連であって、そこから普遍的調和が生まれるのである。もとより、この関連・この調和を考えつくのは、これらを考える精神、あるいは、これらを感ずる精神以外にはあり得ない。にもかかわらず、この関連・この調和は客観的なものであることを失わない。思考力をもつものすべてにとって、共有のものであり、共有のものとなり、また、いつまでも共有であることをやめないだろうからである」。しかし客観的な現実とは、神の視点から見られた真理と同じではない。たとえ神の啓示に助けられたとしても、科学は事物の真の本質に決して到達できないだろう。

 われわれにとっては、さしあたり色、音、空間、時間……が、究極的要素であり、これらのあいだの所与の連関こそがわれわれの探求すべきものである。ここにおいて実在の探求が成り立つ」。

 「実在はわれわれの束の間の移ろいやすい印象の中にしかないのであって、この実在そのものも、これに手を触れるや否や、たちまち消えてしまう」。

 多くの心が共有できるのは、数多くの感覚を「結びつける」関係に限られる。

 「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する。

 現れては消えていく理論ではなく、残り続ける関係に注目せよというポアンカレの指令は、単に歴史から得られた教訓ではなかったし、哲学的な格言にすぎないわけでもなかった。

 客観的なものは、個別的なもの、あるいは局所的なものを貫いて存在する。客観的なものは、究極的には人間を超え出て、「すべての思考する存在者」のものとなる。

 客観的な思考は、世界にあるものの多くをとらえられないかもしれない。しかしそれは科学の基礎になり、共同体の基礎になる。そして人間が何らかの不死性を望めるとするなら、その希望の基礎になる。

中立的な言語の夢

 カルナップささらに進んで、寛容さは言語、政治、そして存在論にも及ぶと見なすようになった。共有できない経験は抑制せよ。特定の存在は絶対視するのは控えよ。どんな手続きも普遍的に要求されるものと見なしてはならない。

 このような禁欲は、手続きを共有し、ルールを共有し、構成されたものを共有することで可能になる。これら共有されるものは、伝達可能な思考の核となり、すべて構造の視点から再定式化できるものであった。ここにこそ、客観性があるのだった。

 「感覚のあいだの関係だけが客観的な価値を持つ」

ラッセルによる世界の構造

 ラッセルはここで同じ構造をもつ、二つの対応する世界があると見なしている。現象的(主観的)な世界と抽象的(客観的)な世界である。ラッセルの考えでは、この対応があるために、私たちは経験を通して客観的な世界について知ることができる。伝達可能な命題はどちらの世界でも真であるか、どちらの世界でも真でないかでなくてはならない。

 ラッセルによれば、構造上の関係が復元するのは、(空間と時間という現れをふくむ)主観的な現れに対する「客観的な対応物」である。

宇宙規模の共同体

 機械的客観性の実践は、孤独であり、逆説的にも自己中心的な探求であった。自己によって自己を抑制し、意志を否定する行為によって、まさに意志を肯定するのである。対照的に構造的客観性は自己の消滅を要求する。

 求められていたのは、共通の世界であった。それと単に経験されるだけでなく、伝達可能な世界である。 

 分析の最終地点に至ったときに構造的客観性が仕えるのは、真理というよりもむしろ宇宙規模の共同体であり、ポアンカレのいう「普遍的な調和」だった。

 構造的客観性が自己を排除しようとしたのは、世界についてよりよく知るためというより、むしろ自己と世界を互いのイメージに沿ってつくりなおすためであった。自己も世界も骨格となる関係だけに切り詰められた。残るのはネットワークのなかの結節点だけになる。ここで知る者と知られるものが見事に適合しあっている。 

 「〔アインシュタインにとって〕客観性とは物理法則の不変性になった。それは物理的な現象や観測の不変性ではないのだ」。

 「「客観性」が群の性質を前提にしているというのは正しくない。そうではなく、群の性質が客観性の観念の洗練を要請するのだ」。

 カントによる次の格言がアインシュタインを突き動かしていた。「現実的なものは、私たちに与えられているわけではない。私たちに課せられている(aufgegeben)のである(謎として)」。

 ……区別の正当性はその有用性のうちにしかない。

 相対論では、私たちは主観的な時間から出発して、客観的で同期させられた時間を構築するとアインシュタインは考えた。この主観的な出発点は、複数の時計を同期させるやり方が規約的であることをアインシュタインがつねに強調していたこととあいまって、ひとつの理論のなかで主観的なものと客観的なものが不可分であることを示している。

 確かに客観性は必要不可欠だ。だが物理学において客観性が見出されるのは、それを構成する要素ごとにではないし、対称性ごとに見出されるのでもない。そうではなく、客観性は相対性理論のような理論の全体からくるのである。そこには原理、観測、そして規約が含まれる。

 哲学者のトマス・ネーゲルは、この種の客観性はとりわけ印象深いかたちで、「どこでもないところからの眺め」と表現している。

 見方や考え方がより客観的になっていくということは、個性や状況といった個別性はもちろん、どのような生物であるのかといった種別性にも影響されなくなっていくということだ。理解の方法の客観性がたかまっていけば、それは主観的能力への依存から解放され、より多くの種類の主観的立場からたどり着くことができるようになる。特定の個人の見方に比べて客観的といえる立場であっても、はるか外側の理論的立場に比べれば主観的なものになるだろう。……現実とは、自分がたまたま身を置いている状況から一歩一歩距離をとっていくのに応じて、しだいに姿を現してくる同心球みたいなものだといってよいかもしれない。

 何かを知ろうとする者が、ネーゲルの同心球を外側に向けて進んでいくと、ある種の選別にかけられることになる。そこでは「自己という偶然性」はふるいにかけられる(だが思考する本質は除去されない)。

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。