mitsuhiro yamagiwa

第 7 章 表象から提示へ

見ることは存在することーー真理・客観性・判断

 認識と倫理のどちらの領域でも、共存はときに平和的であり、ときにはそうでない。並んで存在する認識的徳は、それらのあいだでの選択が可能であるというまさにそのことによって、暗黙のうちに互いを変えていく。

 知覚、判断、そしてとりわけ価値は、見ることと注意を払うことという小さな行為の絶え間ない繰り返しによって、較正され、固められていくのである。

 純粋に私的な言語というものがないのと同じく、純粋に私的な価値というものは存在しない。倫理的なもの、より限定された科学における倫理的なものですら、つねに集団的な事柄であり、さらには歴史的なものでもある。

 客観性とはいくつもある認識的徳のひとつなのであって、認識論全体の最初にして最後というわけではない。

 あらゆる認識論は恐怖からはじまる。世界はあまりに迷宮のようで理性では通り抜けられないという恐怖。感覚はあまりな虚弱であり、知性はあまりに脆いという恐怖。権威と慣習によって盲目にさせられてしまうという恐怖。

 客観性は主観性を、核としての自己を恐れる。

 主観性は知識の前提条件、すなわち知る自己そのものなのである。

 このことが、客観性がもつ残忍なほどに自己言及的な特徴、すなわち意志に立ち向かう意志、自己にあらがう自己の理由である。これこそが客観性の力を説明する。客観性は、ほかのどんな処方よりも根本的な認識論上の治療法である。なぜなら、客観性が治そうとする病は、知識と誤謬双方の根っこにある、文字通り根本的なものだからである。

 客観性と認識論の関係は、極端な禁欲と道徳の関係に等しい。

 主観性は、視力の悪さや過剰な想像力といったような、修正されたり制御されたりするべき自己の弱さではない。それは自己そのものである。

 歴史にできるのは、ただ、別の選択肢の可能性を提示することだけである。そのことによって、明白な公理に見えるものー「私たちの知っている以外の形ではありえなかっただろう」ーーを、理性にもとづく議論の俎上に載せるのである。

 誤りというものは、よく知られているとおり増殖するものである。ゆえに、それを防ぐ戦略もまた増植していく。

 客観性の歴史は、なぜあらゆる考えや実践が混じり合い、ほかのものがこぼれ落ちていったのかを説明しなくてはならない。

 客観性と主観性は、世界と精神のあいだの永遠なる相補性のようなものを単に言い換えたものではなく、特定の歴史的状況の表現なのである。

 主観性によってとらえられる自己はきわめて個人化されている。だからこそ、一方の意味での客観性(私たちが構造的客観性と呼んできたもの)は、すべての個人的特性を引きはがす。

「思考する存在」

 主観的な自己は、その境界からあふれだし、自分自身を世界に投影する傾向がある。

 そして、ここが私たちの重要な論点なのだが、科学的な客観性と芸術的主観性の実践はお互いに鏡像関係にあったのである。

 結局のところ、客観性の概念は一貫性を持っている。ただしそれは、歴史的な背景を踏まえることで初めて浮かび上がってくるような一貫性なのである。

 すなわち、個人の犠牲と個人からの解放との間の緊張、自然への能動的な介入と受動的な記録とのあいだの緊張がもたらされた。

 真の自由意志は気ままなものではなく、拘束性をもつ法のうちに自らを表出するのである。客観性は恣意性の敵であると同時に、意志の自由な選択の最上の表出でもあるのだ。

 それぞれの図像はそれぞれのやり方で自然に忠実であろうとしているが、自然そのものであるように見せかけてはいないし、ましてや自然をつくりかえるそぶりは見せていない。表象とは、必ずしも自然を模倣する行為ではないとしても、つねに自然の肖像画を描く行為である。本質的なのは、re-という接頭辞である。つまり何かを表象しようと努めている図像は、すでに存在しているものをもう一度、現前させようとしているのである。

見ることはつくることーーナノファクチュア

 同時対比とは、特定の色彩を目にした際にその補色をつくりだすという心理的な傾向のことをいう。ゲーテにとっては、私たちの知覚が環境に依存するのはよいことだった。色彩が芸術的な意味で有用なものとなるからである。

 芸術と科学が単一の営みだというのは自明でないし(今日では真と美が必然的にひとつになると考える者はほとんどいない)、お互いに断固とした対立関係にあるのではない。その代わりに、両者は数少ない境界領域において不安定なまま、しかし生産的な形でお互いを強化しているのである。

正しい描写

 記録された科学的図像は、非常に長いあいだ、知識の獲得における特定の脅威を防ぐうえで役に立ってきた。すなわち個物のあいだの可変性、意志のあふれる個人の介入、機器がつくりだす人工産物と闘ってきたのである。

 つまり、実在を正しくとらえているかどうかではなく、正しい現実をつくっているかどうかという不安である。

 訓練された判断が下されるときには、図像は私たちと私たちでないものとのあいだに架けられた橋であった。そしていまや図像は、部分的には道具一式に、部分的には芸術になりつつある。

 科学的図像は、つくりあげる力を身につけるとともに、表象という側面を完全に脱ぎ捨ててしまいつつある。再び図像は変わりつつあるのだーー科学的自己とともに。

訳者あとがき

 科学的であるとは、そのまま客観性を意味するのではないのか。

 一九世紀初頭、科学者たちは人間から徹底的に切り離された知識を求めはじめた。そのため彼らは、自らの「主観」が知識に混入しないように排除しようとした。つまり「客観性」の誕生は、科学研究の現実における実践の変容と深く関わっているのである。

 ものを見るとは、自然をそのまま受け取ることではない。あるいは人間の側が、あらかじめ持っている世界観にもとづいて自然を解釈することでもない。

 つまり科学者が自然を見るということは、彼らの身体実践と深く結びついているのである。

 そもそも科学とは、自然を認識し、知識として表象することによって他者と共有する営みである。

「truce to nature」
この用語の意味するところは、個別の現象の背後にある自然の「本性(nature)」に忠実(true)に表象するということである。それは自然の「真理(truth)」を描写することにほかならない。

 瀬戸口明久

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。