mitsuhiro yamagiwa

2023-12-25

「親密さ」への没入

テーマ:notebook

結論 親密さの専制

 親密さとは、この最後の種類の、普通の生活における一つの専制的支配である。

 むしろ制度や出来事のなかで働く個性、あるいはそれらを体現している個性を見分けられるときにのみ、われわれは制度や出来事に関心を持つようになったということである。

 親密さとはひとつの限られた視野であり、人間関係によせる期待である。

 この社会の地理は、自然な人間の性格という概念にもとづく人間性のイメージによって支配されており、この性格は生涯の経験によって創りだされるのではなく、経験のなかに明らかにされたのだった。それは本来〈自然〉に属していて、人間に反映されたものだったのである。

 徐々にこの自我という不思議で危険な力が社会関係を定義するようになった。それは社会の原理になったのである。

 われわれが今日住んでいる社会は、その歴史の結果を、つまり、社会的な意味は個々の人間の感情によって生みだされるという信念による公事の消滅を、重荷として負っている。

 コミュニティは社会に対する武器になる。社会の大きな害悪はいまやその非個人性にあると見られているのである。しかし、工業化した欧米のように、経済をコントロールする構造が国際的規模にまで斬新的に拡大することで安定を達成させた社会においては、力をもったコミュニティとは幻想でしかありえない。

 真の人間関係は個性の個性への開示であるとするこの信念は、第二に、都市のもろもろの目的についてのわれわれの理解を歪めた。都市は非個人的生活の道具であり、人、利益、また趣味の多様性と複雑性が社会的経験として可能な鋳型である。非個人性への恐怖がその鋳型をいま破壊しつつある。

 真の人間関係は個性の個性への開示であるとするこの信念は、第二に、都市のもろもろの目的についてのわれわれの理解を歪めた。都市は非個人的生活の道具であり、人、利益、また趣味の多様性と複雑性が社会的経験として可能な鋳型である。非個人性への恐怖がその鋳型をいま破壊しつつある。

 親密な事柄への没入は非文明的な社会のしるしである。都市を改造すること、および、十九世紀にはじめて作りだされ、今日では信条となっている地方主義の鎖から脱却することは、また政治的行動の原理を改造することである。

 人々が積極果敢に社会における自分たちの利益を追求できるようになれる限度が、人々が非個人的に行動するようになる限度である。都市はその行動を教える教師でなければならず、他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になることが意味のあるものになるフォーラムでなければならない。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳