ナルシシズムの精神的エネルギーを動員するのは信念の文化と協力したこの階級構造なのである
問題は彼らが会社の構造を与えられたものとして受け入れるかどうかであって、それが好きかどうかではない。
遊びはルールの質に働きかけるある快楽を含むものである。それとは反対に、ナルシシズムは禁欲的な活動である。
ナルシシズムは現代のプロテスタンティズムの倫理である
すなわち、自己を確実なものにする目的のために欲求の充足を拒むことである。これが「世俗的な禁欲主義」である。
ナルシシズム的衝動は禁欲的な自己正当化の観点から定式化することで社会的なものになる。
それは自己へ注意を向けさせる自己否定なのである。
自分に満たされないがゆえに、エネルギーは自分自身に集中するのである。
一つは終結への不安、いま一つは空白感である。
期待がたえず引き上げられ、現在の振る舞いが決して期待を満たすものでないということは、「終結」を欠いていることである。
自己嫌悪で苦しんでいるように一見思えるこの叱責は、本当は外部への非難なのである。
つまりナルシシズムは、形づくられた感情の提示(presentation)というよりも、われわれが他の人びとに対する感情の表示(representation)と呼んできたコミュニケーションの形態の心理的根拠なのである。
ーーなぜなら、なんといっても、「内部」が絶対的な実在であるからである。感情の形態は感じようとする衝動から派生したものにすぎない、というわけなのだ。
しかし、対象化を拒否するその人にとって、もしできるとしてのことだが、語ろうとする衝動は本物なのである。
ダーウィンの金言を思い起こそうーー人が感じるものは人の意志の力によるコントロールを超えて現れる。ナルシシズムは性格の不本意な暴露という考えをその論理的な極にまで進めるのである。
破壊は、人々の間の障壁を取り除く、人々をより親密にするという名目のもとにおこなわれるであろうが、その行いは社会の支配構造を心理学のことばに置き換えることに成功するだけのことであろう。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳